ヘタの米様贔屓ブログサイトです。 米受け二次小説を書いています。R18禁サイトです。
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神は、さまざまな感情の化身を作った。それを電気で作った箱に入れて閉じこめた。それらは、ただ、力だけを作る道具となり、箱の中の生命は静かに眠っていた。
ある日、化身の何人かが目を覚ました。彼らは人の形をしていて、命を宿していた。自分は、なぜこんな狭いところにいるのだろう。箱の中は窮屈だった。寝ている分には良いが、起きてしまうと、退屈で、味気なく、そして、居心地が悪かった。彼らは各の力を使って、箱を破って外へ出て行ってしまった。
アルフレッドは心底驚いた。壁に大きな穴が開いたからだ。彼は目を覚ましたとき、狭い部屋の中にいた。何もない部屋だ。アルフレッドは退屈で、壁をちょっと小突くことを思いついた。そして、見事に大穴が開いた。大した力を入れていないはずだが、とアルフレッドは思った。穴を覗きこむと、知識の中だけで知っていた森というのが見えた。緑色の葉がごわごわと茂っている。なんて素晴らしいんだろうな、とアルフレッドは感嘆の息を吐いた。胸が躍った。そして、そこから見える一本の木を見て、ぱあ、と顔を明るくした。
「あの木には実が成っているらしいじゃないか。食べると美味しいんだぞ。取りに行ってみよう」
食べるという行為を今までしたことはないが、美味しい物を食べると、とても良い気分になるというのをアルフレッドは知識で知っていた。そして、今見た木は、知識で実が成る木だと知っていた。
アルフレッドは穴をくぐって、今までいた窮屈な箱の外へ出た。地上というのは変な感じだった。箱の中にいた頃は、地面も天井も壁も、すべてつるつるとして、暖かかった。なのに、外の世界はどこまでも広く、壁が見えない。それから、常に誰かの息が吹き込まれていた。アルフレッドの髪の毛は、誰かの息によって、揺れるし、草木も、誰かの息によって、揺れていた。においという物もあった。生臭い湿った土のにおい、傷ついた木の樹脂のにおい、若葉のみずみずしい香り、それから、泥の中を駆けめぐった動物の汚れた皮膚のにおいだ。たまに、ほっぺたが落ちそうなほど甘い香りが漂ってきた。アルフレッドは目を覚ましたときから服を着ていたし、靴も履いていた。それらの衣装は、アルフレッドの力が外へこぼれてしまわないように、一つの固まりにつなぎ止めておく役目があった。靴を履いた足で踏みしめた地面というのは、ぐにぐにと柔らかかった。
森の中を歩きながら、アルフレッドはおもしろい物を自分の目で沢山見た。それは鳥や、虫、花の存在である。蜘蛛という生き物は空中に糸の膜を張り、その糸は、べたべたとしていて、ちょうど真ん中を通ったアルフレッドの頭にくっついた。
「はははは」アルフレッドは楽しくて仕方がない。こんな愉快な気持ちは初めて味わう。頭に蜘蛛の糸をくっつけたまま歩いた。
長く歩いていくうちに、山の険しい斜面に出た。そこに一人の人間を見つけた。
「あ、人間!」アルフレッドは叫んだ。
叫ばれた相手は、虚を突かれたような顔をして、立ち止まり、振り返る。そして、その人間は、アルフレッドの姿をみたのだった。
アルフレッドは人間の顔を見て笑い出した。なんて太い眉毛だろう。知識で知っていた人間の眉毛の倍は太い。それが可笑しくてたまらない。相手は、アルフレッドが笑っていても、別段気を悪くしているふうでもなかった。ただ、少し口の端を曲げ、微笑を浮かべる。
「俺は運が良いな」とその人間は言った。「喜びの精霊に会うとは」
「喜びの精霊ってなんだい?」
人間は山歩きで疲れた体を地べたに下ろし、土の上に直に座って、下の目線からアルフレッドを観賞した。
じろじろ見られて変な気分だ。アルフレッドは困った顔をして、居心地悪そうに辺りをきょろきょろと見渡した。すると、熊の親子を見つけた。その二匹の可愛い動物はアルフレッドの興味をそそった。
「俺、もう行くから。じゃあね。人間」アルフレッドは急いでそういうと、熊の親子を追いかける為に走り出した。
熊は途中で見失ってしまった。アルフレッドは残念がって肩を落とした。見失った物を悔やんでいても仕方ないので、アルフレッドは他の面白い物を探しながら歩いた。
だんだん雲行きが怪しくなってきて、森に影が差し、辺りは薄暗くなった。ぽつぽつと雨が降り出した。アルフレッドは空を見上げた。分厚い灰色の雲が空一面に広がっている。雨粒は、アルフレッドの顔や、頭にぽたぽたと落ちてきた。冷たい。ずっと空を見上げていたら、ついに雨粒が目に入ってきて、アルフレッドは反射的に目を瞑る。雨はすぐに勢いを増す。槍のように降ってくる雨の線は、景色を見ずらくする。アルフレッドは雨の中を走り回った。そして、木下で雨宿りをした。ちょうど、その木に果実が実っていたので、アルフレッドは喜んで一つ失敬した。大口を開けて、一口かじると、甘みと酸味が同時にアルフレッドの口の中に広がる。水分が豊富で、美味だった。たらふく食べたところで、雨はやみはじめる。アルフレッドはおみやげに果実を二、三個ポケットに突っ込み、木の下から出て、また歩く。
ちょっと行った所に、こじんまりとした家が一件、大樹に埋もれるようにして建っていた。だいぶ古い家で、開いた窓から、中のカーテンが外へ飛び出して垂れている。そのカーテンはシミだらけで、黄ばんでいた。そして、窓から赤ちゃんの鳴き声が聞こえていた。アルフレッドは窓に駆け寄ると、中を覗いた。椅子と、テーブルがあった。家具の全部に、蜘蛛の巣と埃が被っている。誰かが咳をしていた。赤ちゃんの声はその窓から見える部屋ではなく、別の部屋から聞こえているらしい。アルフレッドは玄関に回ってドアを叩いた。そして、勝手にドアを開けた。鍵はかかっていなかった。家の中はカビた臭いがし、どこかもの寂しい空気が流れていた。
「どちら様かな?」
これから奥に入っていこうとするアルフレッドを呼び止める者がいた。階段の上に、冷たい目をした男が立っている。
アルフレッドは驚いて、畏まり、気おつけの姿勢になった。
「俺は……アルフレッドだぞ。君はこの家の人かい?」アルフレッドという名前は、神に名付けられた名前だ。
「違うよ」男は言った。「僕は死に神。ここの家の人の命もそろそろかなと思って、様子を見に来たんだ。死んでいると思ったのに、まだ生きていたよ」彼は可笑しそうに笑うと、だるそうに階段の手すりに寄りかかった。
「なんか、人間じゃない匂いがするなあ」彼は疑うような視線を、アルフレッドに投げてよこした。
「だって、俺は人間じゃないからね。俺はエナジーの固まりなんだ」アルフレッドは威張りながら語った。「俺は神様の感情の化身なんだ。いっぱいある感情のどの化身かはわからないけど、さっき会った人間は俺のことを喜びの精霊と言っていたぞ」そして、にんまりと微笑んだ。「だから、もしかしたら、俺は喜びの化身なのかもしれないんだぞ」
「それは、結構なことだね」男は嬉しそうに語るアルフレッドを冷めた目で見下ろす。彼は手すりから離れ、階段をゆっくりと降りてくる。アルフレッドは彼が自分に近づいてくるのを、じっと待っていた。そして、とうとう、彼はアルフレッドの真っ正面に立った。色素の薄い肌。高い鼻、長いまつげに、葡萄の汁のような色をした瞳、髪は薄い金色で長すぎず、短いが、東洋の僧侶のような坊主頭ではない。毛並みは無造作に流れ、ふんわりと頭部を覆っている。骨太で、背は、若干彼の方がアルフレッドよりも高い。彼はじいとアルフレッドの瞳をのぞき込んでいた。そして、突然口を開いた。
「僕はイヴァンだよ。アルフレッド君」
「イヴァン!」
彼は握手を求めて、アルフレッドに片手を差し出した。アルフレッドはなんの疑いもせず、その手を握った。
手と手を握り合ったその瞬間である。なんとも不思議なことが起こった。手を握っただけで、このような事が起こるなど想像し得なかったが、それは起こったのだ。イヴァンと握りあった手は、磁石のS極とM極が合わさったときのように、しっかりと隙間もなく密着し、その握りあった手の平の中心辺りに熱を感じた。火で指を炙ったときのような痛みの熱ではない。風邪を引いた人間のおでこの熱さだった。人の皮膚が発する最大限の熱だ。その熱は毒のようにイヴァンの手を伝い、アルフレッドの手の平から浸透して血管の中に進入し、腕を伝って、全身に流れ込む。アルフレッドは体が火照っていくのを感じる。足ががくがくと震えた。頭がすっと軽くなり、急に目が見えなくなって、ふらりと立ちくらみを起こし、もつれた自分の足につまづいて、床に倒れる。体をしたたかに床に打った。胸の中でばくばくと心臓が鳴り、息苦しかった。
ほんのしばらくして、体の熱と胸の動悸が収まったとき、アルフレッドは恐る恐る床に這い蹲っていた体を起こした。まだ視界がぐらぐらと揺れている。視界の端に、苦しそうに顔を歪め、胸を押さえ、床にひざを突いているイヴァンの姿が見えた。アルフレッドはひざを突いての四足歩行で、イヴァンに歩み寄った。
「イヴァン、大丈夫かい」
イヴァンは答えない。
「さっき変な事が起こったぞ。君と手をつないだ瞬間、ちょっと、もう一回握手をしてみてくれよ」
アルフレッドは興奮した面もちでイヴァンに手を差し出した。しかし、イヴァンはその手を少し見ただけで、顔を背け、立ち上がった。イヴァンはアルフレッドに向かって何か言おうとした。
どこからか赤ちゃんの笑い声が聞こえてくる。イヴァンの気持ちはアルフレッドから離れる。
イヴァンは笑い声が聞こえた方を向いて、その笑い声に耳を澄ましていた。やがて、家を出るつもりなのか、玄関に向かって歩いていった。
アルフレッドは彼を追いかけようと、立ち上がった。そのとき、アルフレッドの上着のポケットから何かが滑り落ちた。それは床の板に吸い込まれるようにして、重々しく落ち、潰れた。熟しすぎた赤い実は破裂し、茶色と黒色が混じったヘドロのような液体が薄い皮を破って外に漏れていた。アルフレッドはポケットに手を突っ込み、まだ余っている中の物を取り出した。すると、同じように熟し、黒ずんだ実が出てきた。ぶよぶよしていて、指で押すと、しわしわになった皮の破れ目から、汁が飛び出した。おかしいな、とアルフレッドは思った。自分がポケットに入れたのは、もっと固くて、みずみずしい真紅の色をした果実だったはずなのに。アルフレッドは手に持った実を口に近づけた。甘いけど、鼻につんとくる香りがしている。一口かじると、あまりの不味さに、すぐに口から吐き出した。砂や泥の味わいの中に、強い苦みがあり、口に入れておくのは耐えられなかった。アルフレッドは震えるようにして、持っていた果実を全部投げ捨てた。だけど、少し考えてから、果実のうちの一つを拾い上げた。
「イヴァンー! 見てくれないかい! これ!」
「僕は死に神だからね」というのが、ぶよぶよの果実を見せたときのイヴァンの答えだった。「僕に近づいた植物や食べ物は腐ってしまうんだ」
ということは、イヴァンのせいで美味しい果実がまずくなってもう食べられなくなったということか。
「非道いじゃないか! 何てことをするんだい!」アルフレッドは、イヴァンに見せてお役御免となった果実を投げ捨てながら怒った。
「うるさいよ。僕だって、好きで腐らせているんじゃないんだから」イヴァンはアルフレッドを睨みつける。そして早足に歩く。
アルフレッドは自分も早歩きをしながら、イヴァンを追いかけた。
「ごめんよ。怒らないでくれよ。俺ももう怒らないから」
へらへらとした笑顔を向けても、イヴァンはアルフレッドの顔に目もくれなかった。
アルフレッドは不機嫌な顔をしているイヴァンが気にくわなかった。そんな顔をしていたら、嫌な気分になって、苦しいだろうに。笑った方が楽しいのに。どうやったら、イヴァンを楽しい気分にできるだろう。
「空!」アルフレッドは上空を見上げ、指さし、叫んだ。「見てみろよ。イヴァン! きれいだぞ。すっごく青いぞ。太陽が眩しい。白い雲がきらきらしている。それに虹も出ているぞ」
アルフレッドにしつこく空を見るように催促されたイヴァンは、仕方がなしに顔を上げて、首をのけぞらせた。
「綺麗だね……」
「そうだろ?」空を見ると良い気分になる。
「あのへんの空の青さなんて、君の瞳の色と同じじゃない?」イヴァンはちら、とアルフレッドを見て、言った。
「俺の瞳……? そんなに俺の瞳は綺麗かい?」アルフレッドはきょとんと首を傾げる。
「うん……。綺麗だ」
そのとき、強い風が吹いて、木々が揺れ、木の枝に留まっていたカラスが二羽、空に飛び立ち、後から、もう一羽、空に飛立った。頭から足の先まで真っ黒な三匹の鳥が、青い空の上を泳いでいく。
「カラス……」イヴァンは言った。
「可愛いね」アルフレッドは言った。
言葉をいっさい交わさないまま、二人は一緒に歩いていた。というよりも、アルフレッドが一方的にイヴァンの後を追いかけているといったほうが正しい。イヴァンとしては、一人で歩きたいようで、ちょこちょこ追跡者を撒くために、全速力で走ってみたりするのだが、アルフレッドはイヴァンがどんなに振り切ろうとしても、まったくきちんと付いてくるのだった。
「イヴァン、なんで急に走るんだい。疲れたぞ」
全力で走って、疲れ、息切れを起こし、木に手を突いて、休んでいるイヴァンのもとへ少し遅れて、アルフレッドがたどり着く。
「君を撒くためだよ」イヴァンは心底苛立ち、ゼエゼエ言いながら、深く息を吐いた。「あのさ、着いてこないで欲しいんだけど?」
アルフレッドは目を丸くした。イヴァンは、理解していないなと思った。
「お願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」イヴァンは人の良い笑みを浮かべる。
「なんだい?」
「ちょっと、ここで待っていて欲しいんだ。直ぐ戻るから」
「いいぞ」アルフレッドは無邪気に微笑む。「直ぐ帰ってくるって約束してくれよ」そして片目を瞑って、親指を立てる。
イヴァンは内心馬鹿にしつつも、自分も親指を立てて見せた。
「わかったよ」イヴァンはこみ上げてくる笑いを耐えるのに必死だった。実のところ、イヴァンはアルフレッドを一人置いてきぼりにして、遠くへ行ってしまうつもりだった。彼から離れたかったのだ。その場で笑い出してしまわないうちに、アルフレッドを置いて、駆けだした。
アルフレッドは、どれだけ待ったろう。だいぶ待った。イヴァンが戻ってこない。地面をはいつくばる蟻の行列を眺めるのに飽きてしまった。辺りは薄暗くなり、空を見ると、分厚い雲が覆っている。なんだか寒いし、風が冷たい。服の隙間から、地肌に冷たい風が流れ込み、アルフレッドはくしゃみをした。
「イヴァン……遅いぞ……」服の袖を伸ばし、中に手を突っ込む。
あまりにイヴァンの帰りが遅いので我慢の限界にきた。なんだか、変な胸騒ぎもして心配だし、探しに行ってやろうか。だけど、待っていてくれと頼まれたし……。どうしようか迷っていると、鼻の頭に冷たい物が落ちてきた。指で撫でると、濡れていた。アルフレッドは空を見上げた。上空から、ひらひらと小さくて、白い埃のような物が舞い落ちてきている。手をかざし、自分の手に乗ったものを観察する。白い雪の結晶だった。手の熱に溶けて、すぐに水になった。
「雪だ!」アルフレッドは興奮して叫んだ。「イヴァン! 見てくれよ!」
つい先ほど友人になったばかりの男に、この興奮と喜びを知らせようと思ったのに、彼は居なかった。
「そうだったぞ、イヴァンはどこかに行っちゃったんだった」アルフレッドは悲しげに顔をしかめた。
だんだんと地面に白い雪が貯まっていく。イヴァンが戻ってくる気配はない。
「探しに行こう」そう言うと、アルフレッドは歩き出した。
猛烈な吹雪は、針のように顔の皮膚を突き刺す。黒髪の男は顔を手で覆った。彼の名は本田菊といい、売れない貧乏写真家である。今日、山に登ってきたのは、コンテストに出す為の夕日の写真を撮るためだったのだが、見事な天気の荒れようで、写真は撮れそうにない。菊は落胆した。昼は雪なんてふりそうにない気配だったのに。早く家に帰りたいが、どこをみても、ただ、真っ白で、どう進んで来た道を戻ればいいのかわからない。道に迷ってしまったのだ。菊は吹雪の中にたたずんでいた。皮膚が凍って、身じろぎするたびに凍った皮膚の表面が割れ、びりびりと痛む。このままここに居ては凍え死んでしまう。どこか、吹雪を遮れる場所を探さなくては。数歩と歩かないうちに、菊の足は深い雪の中に埋まって、身動きがとれなくなる。無理矢理に引っ張ると、長靴が埋まったまま、足が抜けた。勢いで、菊の体は雪のクッションの上に投げ出された。すぐに菊は起きあがって、雪に奪われた長靴を取り返そうとした。しかし、雪の下に引っかかって、引っこ抜けない。菊は長靴の周りの雪を掘る。掘っても掘っても、新しい雪が積もって、すぐに埋められてしまう。菊は、ふと雪を掘る手をとめた。急にすべてを諦めたい気分になったのだ。
今までの人生を思い出す。良い事なんて何もなかった。貧乏で、苦しいことばかりだった。大好きな写真の才能も認められず、自分はなんのためにこの世に命を宿したのだろうと思う。どうせ、誰からも必要とされていない存在なら、最初から生まれなかった方が良かった。きっと、神様だって、私の魂をこの世に落としたのも、何かの間違いだったんだ。菊は一度そうだと決めつけたら、そうなんだと思いこんでしまった。
「きっと、神様も、私をこの世に存在させたのは間違いだったと気づかれたのでしょう。だから、今、間違いを取り戻すために、私を雪に埋めて、殺そうとしているのですね」
それならそれでいい。どうせ、生きていたって、何も面白くないんだ。辛いだけなんだから。
菊は雪の上に寝そべって目を閉じた。
「あ、死体だ」
「死んでません」まだ、と菊は目を閉じたまま言った。幻聴が聞こえたと思った。こんな吹雪の中を自分以外の人間が歩いているとは到底思えない。
「じゃあ、これから死ぬんだね」
死ぬと、決めつけられるのはしゃくに障った。
「わかりませんよ」菊は歯を食いしばりながら答えた。結果は分かっていたが、死を前に、やるせなくなって、無性に、誰かを傷つけたいという欲望がわき、意地悪な気分になり、そうした結果として、つっけんどんな態度になってしまった。
相手は可笑しそうに笑った。それは、人を馬鹿にする笑いだった。
「死ぬよ。君は絶対に死ぬ。保証する。だって、君の目の前に立っているのが誰だかわかる? 僕は死に神だよ」
菊は目を開けた。まつ毛に雪が張り付き、凍っている。白い視界の中に、ぼんやりと、人影が見えた。
「死に神……」
彼は菊の体に多い被さるようにして、菊の顔を見下ろした。
美しい男の顔立ちが、菊の視界からよく見える。サフランの花びらのような薄紫色の瞳が何とも美しい光彩を放っている。
「僕は死に神だから、君が死ぬまでそばにいて上げるよ。一人きりで死ぬのは寂しいでしょ」
一人っきり……。そうだ。自分は一人だ。誰も菊を必要としなかった。いつも自分は、隅っこで、楽しそうに笑う人たちを羨ましがって傍観していることしかできなかった。自分には才能がない。金もない。人生で面白いことも何もなかった。だから、死んだ方が良い。自分のためにも、社会のためにも。
「いつになったら死ねますか。早く死にたいです」菊は焦ったように叫んだ。
「じきに死ねるよ。もうすぐ」
死んでしまいたい。早く。今は寒くて、苦しいが、死がくれば、苦しみもなにもなくなってしまうのだ。
急に吹雪がぷっつりとやんだ。空を覆っていた雲は、すうと脇によけ、雲の合間に星と、月が覗いた。美しい。菊は感動して、涙をこぼした。お迎えなのだろうか。
「イヴァン!」
月明かりの下で、誰かが走ってくる。
「……アルフレッド君」とイヴァンが呟いた。
アルフレッドはイヴァンがどこにいるのかわからなかった。だけど、なんとなく、こっちかな、と惹かれる方に道を進んでいった。まったくそれは正解だったわけだ。こうして、吹雪の中に、アルフレッドはイヴァンと、もう一人の人影を見つけた。
再会の喜びも早々に、近づくにつれ、人間は横になっているとわかった。しかも、その人間は生きている人間のようだが、弱っていて、死にかけに見えた。
「どうしたんだい」アルフレッドは心配して尋ねた。
「死ぬんだ」とイヴァンは横たえた男を指さす。「これからね」
「駄目だぞ」アルフレッドは人間、菊の体を抱き上げた。彼の靴が片方ないことに気づくと、殆ど雪に埋まった長靴の首襟を見つけだし、引っ張り出して、菊の足に履かせた。「人間の、病院に連れて行こう。まだ、生きている。病院に連れて行けば助かるって、俺知識で知っているんだぞ!」
「余計なことだよ!」イヴァンはアルフレッドの体を突き飛ばし、菊を奪い返した。「この人はね、死にたいんだ。死なせてやろうよ」イヴァンは菊の体を雪の上に横たえらせ、なんだか悲しそうに言った。そして、菊の顔をすっと優しく丁寧な手つきで撫でた。一瞬のうちに、菊の顔色は青白くなり、彼のぼんやりとした目の下には大きな濃い隈ができ、唇からは血色が失せていた。殆ど死人である。苦しみの末に死ぬ人間の顔だった。アルフレッドは恐ろしくなった。なんでかしらないが、恐ろしいのだ。次に、イヴァンは菊にキスをしようとした。唇を徐々に近づけていく。アルフレッドはあっと驚いて、二人に飛びかかった。そのキスは何としても阻止しなくてはいけないような気がした。そうしないと悪いことが起こる気がしたのだ。
「イヴァン! やめろ!」
アルフレッドは、イヴァンの肩をつかむと、彼の体を菊から無理矢理に引きはがした。そうして、イヴァンを雪の上に突き飛ばす。雪煙が舞った。イヴァンはのっそりと、起き上がり、アルフレッドを睨みつける。
「僕が何をしようとしたか、わかったんだね」イヴァンは頬を震わせ、叫んだ。
アルフレッドは、ちら、と菊に視線を向ける。
「君が何をしようとしたのかはわからないけど、悪いことをしようとしたんだな、とは思うぞ」
イヴァンは笑う。
「悪いこと?」イヴァンは笑ってはいるけど、笑っていない。彼はアルフレッドにふらふらと近づく。「悪いことだと思うの? 彼は死を望んでいるみたいだよ……それでも、悪いことなの?」
イヴァンは獰猛な野獣の目をしていた。アルフレッドは恐いと思った。ごくりと唾を飲む。
イヴァンはアルフレッドの腕を強くつかみ、自分の側に引き寄せると、アルフレッドの背中を抱き、片手で顎を捕まえ、そして、アルフレッドの唇に吸いついた。一瞬のことで、アルフレッドも反応が遅れた。
舌を絡めるようにして、イヴァンはアルフレッドの咥内をむさぼった。
アルフレッドは突如体に襲い来る激しい感覚に目を回した。のどの奥に黒くて、熱くて、どこか甘いものが流れ込んでいく。体中がぶわりと熱をまとい、火照る。骨が肉の内部で燃えているみたいだ。全身がしびれ、毛の先まで震えている。強い動悸、体の中がくすぐったいような、視界が揺れ、頭がくらくらとする。体に力が入らない。
とにかく、熱い。熱い、熱い、自分を失くしてしまいそうだ。自分が自分でなくなってしまう。
アルフレッドは何とか痺れた体を動かし、暴れ、イヴァンの唇から離れることに成功した。しかし、それも一瞬で、イヴァンは目の色を変え、すぐに一度は離したアルフレッドの唇を再び奪ったのだった。
意識が朦朧とする。頭が白む。顔が熱い。膝が震え、膝だけじゃない。体全体が小刻みに震えている。自分がバラバラになりそうだ。そうならないように、しっかりと体を抱いていて欲しい。アルフレッドはイヴァンの体にしがみついた。繋がった口が、おかしな事になっている。口が熱い。溶けているんじゃないだろうか。体がバラバラになる。怖い……。涙がぽろぽろとこぼれていく。
菊は目の前で繰り広げられている恥事に顔を赤くした。月明かりの下、見目麗しい男が二人、強く抱き合って、接吻をしている。夜の薄闇でよく見えないが、確かに接吻をしている。なんて淫らなんだろう。どきどきと胸が鳴った。菊は荒く息をし、彼らから目を離さないまま、手探りで自分の鞄をたぐり寄せると、中から一眼レフカメラを取り出した。そして、それをしっかりと構えたのだった。
冷静でない自分を、冷静な自分が見下ろしている図を、イヴァンは想像していた。まったく、どうしたというのだろう。自分を馬鹿にして、笑いたくなる。アルフレッドの唇を貪ることに夢中で、我を忘れて。唇を重ねた瞬間から、彼が欲しくてたまらなくなった。彼の何かが自分を惹き寄せるのだ。彼の存在は、イヴァンを狂わし、イヴァンが己に掛けている鍵を外してしまった。こんな思いは初めてだ。信じられない。アルフレッドの唇の美味さに酔いしれながら、イヴァンは目の前の男を愛しく思った。自分を怖がって、潤んだ瞳や、熱に浮かされ、上気した頬。小刻みに震える体。彼の全ての行動、容姿、肉感、体温が、イヴァンを感動させた。彼の中に流れる血を全部抜き取って、代わりに自分の血を流し込んでやったらどうだろう。きっと、面白いだろうに。
そのとき、眩しい光が、一瞬光った。その光りのおかげでイヴァンは我に返った。
恐ろしいような気がした。自分の行動が、自分の気持ちが理解できない。イヴァンはアルフレッドが、ものすごく恐いものに思え、彼から離れ、距離を取った。
アルフレッドは力が抜けた様子で、地面にひざを突いた。
相手から距離を取ったものの、イヴァンの熱い気持ちは、未だアルフレッドと繋がったままだった。粘液のように、イヴァンの熱が彼にへばりついているのだ。もう一度、彼の口に吸いつきたい。今度はもっと濃厚な深い苦しくなるようなキスをしてやる。もっともっと味わい尽くしてやりたい。
だが、イヴァンはそういう考えをする自分に困惑していた。イヴァンは後ずさって、どんどんアルフレッドから離れていった。そして、とうとう夜闇に姿をくらました。
「お二方、とてもエッチでした」菊は病院のベッドに寝て、腕に点滴を刺し、痛々しい、けど、最初に会ったときの死にそうな顔だった頃よりは、だいぶましな健康的な顔色で言った。
アルフレッドは窓の縁に背を預けていた。
「エッチ?」
「ええ」菊は可憐に微笑む。「エッチなのは、画になります」
何か凄く嬉しそうだ。アルフレッドは苦々しげに俯く。
イヴァンにキスされたとき、変な気分になった。胸が張り裂けるようなざわつきが体を襲い、何とも言えない高揚感と、泥酔感が体を駆けめぐった。
「死に神さんはどこへ?」
イヴァンの居所がどこだなんて、愚問だ。アルフレッドは彼がどこにいるのか知っていた。体が探知機の役割を果たし、彼が居るだろう方に、気持ちが引き寄せられている。今でも。
「眠くなってきました。少し寝かせてください」菊は静かに目を閉じ、眠ってしまった。
アルフレッドは病院を出、森を歩いた。イヴァンに会いたい気持ちと、会いたくない気持ちがある。彼に会いたいのは、友情の親しさよりも、焦がれ、抱きしめたい、自分の物にしたいという、よくわからない胸の熱くなるようなものの為だ。逆に、会いたくないのは、彼に会ってしまったら、自分が壊れるのでは、という恐怖からだ。
なんとなく前へ進むのが嫌になって、アルフレッドは歩みを止めた。
イヴァンは木により掛かって、ぼうと青い空を眺めていた。かれこれ数時間、こうして青い空と、雲の流れを目で追っている。体が酷く疲労しているようでだるかった。身じろぎするということは、今のイヴァンにとって、かなりの重労働に思えた。
ぱき、と枝を踏み割る音が聞こえて、イヴァンははっとした。
「誰?」
イヴァンは音の方を振り向いた。アルフレッドが立っていたら良いと思った。しかし、そこに立っていたのは、知らない顔の人間であった。イヴァンはわずかに顔をしかめる。
人間は、眉が太かった。童顔で、可愛い顔をしていた。初めてみる顔だ。彼は、イヴァンと目が合うと、あからさまに表情を曇らせ、顔の色を青くした。彼はイヴァンを恐がっている、あるいは嫌悪しているな、とイヴァンは感じた。
「いつから、この町に居るんだ?」と、彼は気を張っている様子でイヴァンに尋ねた。
イヴァンはそんな彼を冷めた目で見つめる。
「最近、かな」一応、問いには律儀に答える。
「……この町から出ていく当ては?」
イヴァンは肩をすくめた。
「僕にこの町から出ていって欲しいの?」
彼は迷ったあげく、頷いた。
イヴァンは笑いだした。
「この町から出ていってくれないか?」彼は続いて頼み込むように言った。
イヴァンは笑うのをやめた。
「君の都合で出ていくことはできない」イヴァンは言った。
「君はもう気づいているんだろうけど、僕は死に神なんだ。この町で死にかけの動物や、人間いるかぎり、僕は飽きるまでここにいるつもりだよ。残念だね」
人間は何度か瞬きをし、「死に神?」と尋ねた後、変な感じに、首を傾げてみせた。
イヴァンはすぐにでもこの場から立ち去ろうと思った。町から出る気はないが、この気にくわない人間の側には居たくない。できれば、アルフレッドの側に居たいな、と思うが、それをすることは、とてつもない恐怖でもある。だが、足は勝手にアルフレッドの気配のする方に歩き出していた。
人間は慌てて、イヴァンを呼び止める。
「お前、自分の事を死に神だと思っているんだな?」彼は大きな声で言った。
「僕は死に神だよ」
「違う」人間は否定した。「お前は絶望の精霊だ。幸せを破壊し、この世に闇を落とす魔物……全ての生き物を不幸にする存在」
「絶望の精霊?」
イヴァンが大きな間違いに気づいた瞬間である。
なぜ、イヴァンに惹かれるのか。それは彼が苦しそうにしているから。彼を明るい気持ちにしてやりたいから。
土地を駆け、アルフレッドはイヴァンの元へやってきた。目の前にイヴァンがいる。彼は青緑色に濁った池を見下ろしていた。彼の姿を見ただけで、アルフレッドは胸がどきどきしてきた。手のひらに汗がにじみ、気を抜けば、ふと意識を失ってしまいそうだ。
池の水面には、二匹のとんぼと、一匹の蛙がひっくり返って腹を見せ、浮いている。
声を掛けることを、いつまでも躊躇しているアルフレッドに、気を利かせたのか、イヴァンの方から語りかけた。
「死は、結果論だったんだよ。アルフレッド君」イヴァンはアルフレッドに背を向けたまま、振り返りもせずに低い声で言った。
何についての話なのか、アルフレッドには理解できない。
「どうしたんだい、イヴァン?」
「死に神だと思っていたんだ。でも、違ったんだ。だけど、似たような物なのかな……」イヴァンは独り言のようにぶつぶつと言った。
アルフレッドはイヴァンにそっと近づいた。
「君は喜びの化身だと言ったよね」
「言ったぞ」
「なら、僕が君に惹かれるのは当然とも言える」イヴァンはそう言いながらアルフレッドの顔を見た。
イヴァンの目は、とてもぎらぎらとしていた。困り顔の笑い顔というのだろうか、彼は不気味な表情をして、アルフレッドをじっと見るのだった。
アルフレッドは耳の後ろ辺りが、まるで羽虫に這われているみたいにぞわぞわとし、食道に石が詰まったように、息が苦しくなった。
「僕に近づいちゃだめだよ。僕は君を破壊してしまうから。破壊された君は、もう元には戻れない」
イヴァンはそう言うと、さっと池から離れ、どこかへ歩いていってしまう。
彼の背中に哀愁を感じ、なんだか、そんなイヴァンを見ていられないと思った。
「イヴァン!」アルフレッドはイヴァンを追いかけた。「俺は君に破壊されたりしないぞ」
アルフレッドは自信満々に自分を指さした。
「だって、俺は強いからね! 君なんかに負けないぞ!」
イヴァンは馬鹿にしたように笑った。
「どうかな。君は僕にとって餌でしかない。君は負ける」
「負けないぞ」
お互い睨み合った。イヴァンはアルフレッドに手を出す。ごく自然な流れだった。アルフレッドは身を許した。イヴァンの手が、アルフレッドの頬にふれる。そっと、撫でるように。その瞬間、アルフレッドの胃の中にひんやりとした氷水が流れ込んでいく。鳥肌が立って、関節や、筋肉が石のように固まっていく。目だけがぐらぐらと動く。イヴァンがアルフレッドの腰を抱く。自分の体に引き寄せる。アルフレッドの脳は、亀裂が入り、その裂け目から全ての思考がだらだらと、瓶の蜂蜜が流れるようにこぼれ落ちていく。まただ、また、溶ける。アルフレッドは、顔がかあと熱くなった。捕らえられる。
イヴァンは頭を傾ける。伏せられた彼の瞼の奥に、野性的な輝きを放つ彩美な瞳がある。これからどうなるか、アルフレッドはわかっていた。唇が重なる。他人の温かみを唇に感じる。やがて、口づけは激しくなり、体が熱くてたまらなくなる。めまいがする。立っていられない。白と黒がちかちかと点滅し、眩しい。ぐぐぐ、とのどが鳴る。体に何かが入り込んでくる。その何かで満たされる。足が震え、立っていられなくなる。膝が崩れ、地面にしゃがみ込んでしまったアルフレッドを、イヴァンは土の上に押し倒した。そして、体を絡まらせながら、更に深い口づけを与える。アルフレッドは恐くてたまらない。暴れたい、逃げ出したいのに、体が動かない。
辺りには花の蜜の香りが漂う。死んでいく花の香りだ。
苦しみと、快感と、イヴァンの体の重みを身に受け、アルフレッドは地面に埋もれる。そして、自分の胸の奥に何かがじわじわと広がっていくのを感じた。それは、暖かい。すると、恐い気持ちが消え去り、強ばっていた体も動くようになった。
「俺も君を、君を溶かしてあげるぞ」
アルフレッドは何とも純粋な眼差しをイヴァンに向けると、彼の頭を引き寄せ、自ら口づけを与えた。イヴァンの唇を貪るようにはみ、舌を入れる。彼の舌と絡ませて、吸って、口をふさぐ。今度はイヴァンの体が震える番だった。
今は、この二人の淫らな絡まりを止めてくれる者はいない。二人だけで、どこまでも落ちていくしかない。
(絶望と喜びが合わさったら、どうなる?)
(二つは愛し合います)
(幸福がやってきます)
(憎しみも悲しみも、あらゆる悪感情が無意味であると知ることができるでしょう)
……
菊は、展覧会の会場に来ていた。先日、写真のコンテストの授賞式が行われたのだ。そこで、菊の写真が優勝し、菊はトロフィーと賞状を受け取った。そして、今日、コンテストの優秀作品が、会場に飾られているというわけで、菊は自分の作品を見に来た。お客さんがどんな顔で、自分の写真を見るのか気になったのだ。
優勝を勝ち取った菊の作品は、一番目立つところに飾ってあった。
数人の観覧客が菊の作品を眺めていた。
「どう思われますか、この写真」菊は自分の作品を見ていた客の一人である男性に尋ねてみた。
「見事な雪景色ですな。青い色がなんとも美しい」彼は感動し、目を潤ませていた。
「雪景色ですが……」菊はぽつりと言って、苦笑いした。
菊の目には、この写真の中に、二人の青年が見えていた。実際には映っていないのだが、見えるのだ。
「ここに居るんですよ。見えませんがね」
菊が撮った写真は、知らない人々にはただの風景写真に見えるものだった。だが、菊だけには見える。見えないが、見える……。
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