ヘタの米様贔屓ブログサイトです。 米受け二次小説を書いています。R18禁サイトです。
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彼を最初に診察したのは、菊がまだ走りたての若手医師だったころだ。汚れ一つついていない真っ白な白衣を着て、菊はまだ医師としての貫禄はなく、どこか頼りなげだった。看護婦からカルテを受け取り、菊はその子の名前を読み上げた。一度、名前を読み間違い、看護婦に訂正され、言い直した。
アルフレッドという少年は、名前を呼ばれると、激しく咳込みながら診察部屋に入ってきた。呼吸する度に胸がピーピーと鳴り、のどをがらがらと言わせていた。菊はすぐに喘息かな、と思い当たった。
「大丈夫ですか?」菊が訪ねると、アルフレッドは菊の呼びかけに顔を上げた。顔は赤らみ、咳の苦しさで涙を流していた。小さいくせに、顔はやけに整っていて、菊は美少年を前に、思わず息を飲んだ。
「……せき、が……」
「喋らなくてもいいですよ」菊は優しく言ってやり、彼に適切な処置を施した。そのおかげで、アルフレッドの容態はすぐに落ち着いた。
「喘息ですね」菊は診断を下した。「喘鳴というのが聞こえていたでしょう。胸からひゅーひゅー、と、これは喘息の特徴なんですけど、この年頃の子供に多い病気で……薬を出しましょう」
菊がアルフレッドの両親に薬の説明するのを、症状が落ち着いたアルフレッドは疲れたような顔をして聞いていた。気だるげに伏せられた眼差しが何とも色っぽくて、菊は妙に落ち着かなかった。
アルフレッドは、それから定期的に通院するようになった。菊はアルフレッドの上半身を裸にし、その小さな胸に触り、しこりがないか、触って確認したり、口を開けさせ、銀のへらを挿入し、のどの腫れ具合を調べてやった。アルフレッドは診察中は緊張しているのか、大人しいが、診察が終わると、ほっとして笑顔になり、お喋りになった。明るく、楽しい子供だった。それ以上に美しくて、菊はアルフレッドに会うごとに、彼に魅せられていった。
少年のころ、神懸かって美しかったアルフレッドは、成長しても、やはり美しかった。
何年か経って、アルフレッドは19歳になった。19歳のアルフレッドは、背がぐんと伸び、体もたくましくなった。もはや菊よりも大きかった。だが、彼の精神はまだ可愛い子供だった。
「昔に比べたら、症状も軽くなったでしょう」菊が聞くと、アルフレッドは頷いた。
「そうだね、昔はしょっちゅう酷い発作を起こしていたけど、今は滅多にないよ。先生のおかげだぞ、センキュー!」
アルフレッドは大きな体で、菊に感謝の意味を込めて力強く抱きついた。彼の柔らかい体に窮屈に閉じこめられると、菊はなんだか顔が火照ってしまった。美しい人に懐かれるのは良い気のものだ。菊はにやける顔を押さえる。
「成長を重ねるごとに症状が和らぐのが喘息、アレルギーの症状のもろもろですからね。でも、安心してはいけませんよ。一度は収まっても、また再発するなんてのもざらですから」菊は言った。
アルフレッドは菊から体を離し、肩をすくめてみせた。
「もう治りかけているし、体が元気になっていっているのがわかるんだ。時期に完治するよ。でも喘息が治ったら先生に会えなくなると思うと悲しいぞ」
「あらまあ、アルフレッドさん……。医者の顔をみるなんて、死に際だけで十分ですよ」菊は嬉しそうに微笑んで決まり文句を言った。菊の笑顔を見て、アルフレッドも笑った。
子供の頃のアルフレッドは、池で水浴びをする天使のような可愛らしい恥美的雰囲気があったが、今のアルフレッドは、野性味のある男らしい格好良さが加わって、本人の底抜けの明るい性格も相まり、彼は、本当に魅力的になった。彼の笑顔の破壊力が、なによりも菊の心を翻弄した。患者にふしだらな感情を抱いては、と自制する菊の気持ちも知らず、彼は何度も菊の心を揺さぶってきた。彼が何をしたわけではない。ただ、存在していただけである。なのに、菊は、アルフレッドが側にいるだけで気持ちが大いに乱れ、息が上がった。だって、こんなにも彼は美しいのだ。美しい人を前にもじもじと緊張しない人がいるだろうか。菊はアルフレッドと会うとき、いつも体温が三度は上がった。だが、なんともないふりをしていた。これが好きという気持ちだろうか。
アルフレッドは無防備だと菊は思う。自分の魅力に気づいていない。だから、誰にでもすぐ甘えて、懐いて、懐に飛び込んでしまう。菊はアルフレッドが心配だった。悪い奴の手に捕まったりしたら、どうしようと。いずれ、アルフレッドは誰かを選び、その誰かの物になる。その日が来ることを考え、菊は恐ろしい気持ちに怯え、自分の体が震わしていた。今のところ、アルフレッドが誰かを見つけたらしい気配はなく、菊は一安心だ。まだ彼は自分の物だ。彼がもし、誰かを見つけていたとしたら、それはすぐにわかっただろう。
「いいですか、アルフレッドさん、発作が長期間起こらなくても、決して病気が治ったなんて思わず、万が一発作が来たときのために、吸入器はいつも鞄の中に入れておいてくださいね」
「わかっているよ」
アルフレッドは本当に健康そうだった。これが、昔、病気のせいで大変な思いをしていた人にはとても見えない。
「薬が無くなったら、またいらして下さいね」
「わかったぞ。ありがとう、先生! 俺、これからマシューとアイスクリームを食べに行くんだ! じゃあ!」
アルフレッドは、さよなら、と言って、慌ただしく診察室を出て行った。菊は熱っぽい視線で、彼の背中を見送った。
アルフレッドは自分の喘息は、ほぼ治ったと勘違いしていた。病院には久しく行っていない。最近苦しい発作も起こらないし、目覚めや、寝る前の息苦しさも感じなくなった。だから、楽観して、自分で勝手に薬の吸入をやめてしまった。吸入器を吸った後のうがいなど、いろいろ面倒くさかったが、薬をやめれば快適だった。薬を使わなくとも体調も良く、何も問題はない。発作が出ないのは、成長して、菌に抵抗が出来たのだろうと思う。
一週間、二週間と、時は過ぎ、薬をまったく使わないで、一ヶ月が過ぎた。アルフレッドは至って健康なままだった。
さらに一週間が過ぎた頃。アルフレッドは朝、目覚めると、胸に圧迫感を感じた。だが、いまさら大して気にしなかった。病気からしばらく音沙汰がなかったせいで、心はすっかり健常者に染まっていて、ちょっとした変化にも鈍くなっていた。
大学に向かう支度をして、その日はそのまま家を出た。
駅に向かい、満員電車に乗り込み、大学近くの駅で降りた。道を少し歩くと交差点に出る。横断歩道は赤信号で、アルフレッドは立ち止まった。良い天気だ。青い空の下、すぐ目の前に大学の校舎が見えていた。車の往来は激しく、目の前の道路を車がぴゅんぴゅん走っていく。いつもの光景だった。忙しい早朝の景色。健常者となってから見る景色は、なんでもない光景がひとしおに美しく見える。
そのとき、一際大きなトラックが3台連続して目の前を通って行った。トラックはかなりのスピードを出していて、荷台を揺らす大きな音と、砂埃を巻き上げて走っていった。アルフレッドは気圧されたように一歩後ろに下がった。タイヤによって巻き上げられた砂埃が空中に舞い、アルフレッドは知らずにそれを吸い込む。喉に砂が張り付くと、アルフレッドはたまらず咽せた。咳込み、身をよじって肩を震わせる。喉の奥に強い痒みを感じ、息を吸うと、風が漏れるようにヒーと音が鳴った。アルフレッドの背中にひやりとした汗が伝った。久しぶりの発作だった。肺が痙攣し、咳が出る。また咳をする。一度咳をすると止まらなくなった。咳の間隔は浅くなり、呼吸もままならなくなる。アルフレッドは急いで自分の鞄を漁った。目当ての吸入器は鞄の底の方に沈んでいた。取り出した瞬間、焦っていたのか手を滑らし、吸入器を取り落とした。吸入器は固いコンクリートの上に落ち、そのまま車道に転がって、通りがかった車に踏まれた。ばき、とプラスチックの筒が割れる音が聞こえた。アルフレッドは口を手で押さえる。前屈みになって、咳を続ける。吸入器がないこの状況で、呼吸がままならず、アルフレッドはパニックをおこした。薬がないと息が出来ない。気道が狭まり、ふさがる。苦しくて、胸が痛かった。しばらく発作が起こっていなかった反動か、今回の発作はとりわけ酷かった。目の前の景色が涙でゆがむ。
「おい、大丈夫か? ゆっくり息を吐け」
そのとき、誰かに腕を捕まれる。誰だろう。親切な通りすがりの人だろうか。咳は相変わらず止まらない。
「口から息を吐き出せ。全部だ」
アルフレッドは、言われたとおり、息を吐いた。この苦しみから解放されるなら何だってやる。
「口を開けろ。口から息を吸い込め」彼は応援するように言った。
彼の意図がわからなかったが、アルフレッドは従い、口を開けた。すると、喉にシュッと冷たい霧を吹き付けられた。アルフレッドはびっくりして、でも、覚えのある味に、空気を吸い込みながら気づいた。胸で一端息を止め、そして、ゆっくり息を吐き出す。喘息の吸引薬の味だった。徐々に呼吸が楽になる。
「俺も喘息持ちなんだ」とアルフレッドを助けた男は言った。
アルフレッドは彼の顔をよく見ようと思った。だが、瞳の表面に溜まった涙でにじみ、見えなかった。一度、瞬きすると、涙が落ち、視界が晴れた。飛び込んでくる彼の姿。金色の短髪に、丸い頭、緑色の瞳、すっと通った鼻。形のいい唇、丸くとがった顎、痩せてはいるが、背の高さはアルフレッドと変わらないくらいである。若干彼の方が小さいかもしれない。
嗚呼、とにかくアルフレッドは彼の美しい容姿に目を奪われてしまった。それからただ立っているだけで彼から漂う洗練された雰囲気に息を飲む。自分以外に格好いい人を生で見たのは、これが二度目だった。一度目は、自分の担当医の菊だ。でも、彼は菊とは違った。菊を見るときは、ただ、尊敬し、家族のような親しみの愛情の気持ちがあったが、目の前の彼の姿を目に留めた瞬間、アルフレッドは胸が、ぽ、と熱くなり、落ち着かない心地になった。顔が物凄く熱くなる。だが、これはきっと喘息のせいだろう。
「動けるか?」
ぼうとしていたアルフレッドはハッとした。また咳が出た。
「病院に」と、彼はアルフレッドの体を支えたまま、道路を走っていたタクシーを手で止め、アルフレッドを無理矢理車に押し込むと、自分も後から乗り込んだ。
「お前、どこの病院に通っているんだ?」
「……世界病院、だぞ……」アルフレッドはおどおどしながら答えた。
「向かってくれ」彼は運転手に指示を出す。
運転手はアクセルを踏み、車は発進した。
「先生、急患です」
やれ、出勤して早々これだ。
「今、行きますよ」
菊は看護士に返事をすると、バサリと白衣を羽織って診察室へ向かった。
診察室に入ると、先に患者が椅子に座って待っていた。菊はその人物の顔を見ると、途端に胸が浮き立ち、表情が明るくなった。久しぶりに彼の姿を拝めたことがとても嬉しかった。
「どうなさいました、アルフレッドさん?」
菊はカルテを掴むと、アルフレッドと向かい合うように椅子に座り、興味深げに身を乗り出して、アルフレッドの顔を伺った。そうすると、美しいアルフレッドと目が合う。ハッ。菊はとある違和感に気づいた。彼の青い瞳の奥に、迷っているような、それでいて浮かれているような、憂いの影を感じ取ったのだ。その目を見た瞬間ぞくり、と背筋に悪寒が走った。底知れない嫌な予感がした。菊は彼が抱えて居るであろう感情に心当たりがあり、まさかそれではないかと疑心したのだ。
「……アルフレッドさん……?」菊は怪訝そうに顔をしかめた。
アルフレッドは、返事の代わりに小さく喘鳴を漏らし、少し咳込んだ。すると、菊は医師の顔に戻った。
「発作が起こったんですね。ちょっと、あれを」菊は看護士に注射器を持ってくるように頼む。優秀で物わかりの良い看護士はすぐに菊が指定した物を持ってくる。菊はアルフレッドの白い腕に注射を打ち込んだ。
「……痛いぞ……」
「すぐ楽になりますよ」菊は注射の針をアルフレッドの腕から乱暴に抜き取る。菊はなぜか苛立っていた。
「治ったと思ったのに……また病人に逆戻りさ。嫌になっちゃうぞ」アルフレッドは注射を打たれたところを脱脂綿で押さえ、落ち込んだように小言を言った。だけど、彼は今、病気のことよりも、もっと強く自分の頭を悩ませる別なことを考えている、と菊は見破った。彼の目が全てを物語っている。
「喘息という病気は、そう簡単には治りませんよ」菊は使い終わった注射器を捨て、言った。
「そうかい……」アルフレッドは気のない返事をした。
菊はアルフレッドから目をそらし、カルテに視線を落とす。
「薬は後どのくらい残っているんですか」
「ずっと使っていなかったから、錠剤はまだいっぱいあるけど、吸入器は壊れちゃったんだぞ」
「そうですか、では新しいのを出しますね」
ちら、とアルフレッドを盗み見ると、アルフレッドはぼうと、抜け殻みたいになって俯いている。いったい誰があなたの心を奪って行ったのですか、菊は問いただしたい気持ちを必死に押さえて、パソコンの表に処方箋をどれだけだすか打ち込んでいった。
菊は、激しい嫉妬の波を体の奥に感じた。黒いヘドロのような汚い感情だ。アルフレッドはたぶん恋をしている。菊ではない、別の誰かに。許されないことだった。アルフレッドが顔も知らない他人に好意を抱いていると考えるだけで、腹の底がむかむかしだし、胸に穴が開いたみたくなって、嗚咽するほど気持ち悪くて、吐き気がする。キーボードを打つ指が小刻みに震える。アルフレッドの恋をどうにかして破綻させてやりたいと思う。だが、菊だって分別を持った大人だ。そんな恐ろしい事をしてはいけないとわかっている。だから、しない。放っておけば、いずれ大変なことになるとわかっていながら何もしない。それは、彼が菊を愛していないと知っていたからだ。ゆえに、菊がどんなに努力しようが、菊の気持ちは報われない。悲しいことだが、みんなわかっていた。アルフレッドは恋をし、その幸せを掴もうとしている。
「それでは、お大事に」菊はアルフレッドを突き放した。
「ありがとう、先生」アルフレッドは菊の気持ちは何も知らないで微笑む。
診察を終えたアルフレッドは行ってしまった。アルフレッドがドアを閉めると、押し出された空っぽの空気が菊の皮膚をそろりと撫でた。ただ、菊は切なくて、胸を押さえる。
会計をするために、病院の待合室に戻ってきたアルフレッドは、自分をここまで連れてきてくれた彼の男の姿を探した。だが、いくら探しても見つけられなかった。彼はアルフレッドを病院に送り届けると、そのまますぐに帰ってしまったらしい。まあ、そうだろうとは思っていたが、アルフレッドは肩を落とし、落胆した。もう一度、あの人の顔を見たかった。それで、きちんとお礼を言いたかったのに。アルフレッドは、自分を助けてくれた美しい容姿の彼の顔を脳裏に思い出す。性格も良い人だった。アルフレッドは会計をすまし、処方箋を受け取り、家に帰った。
もう会えないと思っていた。だが、再会の日はすぐにやってきた。初めて彼と出会った例の交差点。この日も、アルフレッドは学校に向かっている途中であった。横断歩道が赤信号だったので立ち止まり、待っていると、後ろから肩を叩かれた。何事かと振り向くと、アルフレッドは途端に目を丸くして驚いてしまった。ずっと会いたかった彼がいた。アルフレッドは嬉しすぎて声にならなかった。
「……元気そうだな」と、あの日と変わらない容姿の彼は言った。
アルフレッドは、顔を真っ赤にし、しどろもどろになりながら挨拶をした。
「あの、えっと、この間は、どうもありがとう。助かったぞ!」とりあえず、伝えたかったことを伝えた。「久しぶりの発作で、俺も慌てていたんだ。持っていた吸入器は落として壊しちゃうし、君が居てくれて本当に助かったよ」アルフレッドは感謝の意味を込めて、自分を助けてくれた男の手を両手で包み込むように、しっかりと握って、二、三度振った。すると、気のせいかもしれないが、アーサーの耳がぽっと赤く色づく。「俺、アルフレッド・F・ジョーンズっていうんだ。君の名前は?」
「アーサー・カークランドだ」アーサーは少し照れたように言った。
「アーサーっていうのかい」
アルフレッドはアーサーの名前を忘れないように、しっかりと心に刻んだ。
「大学生か?」アーサーは尋ねた。
「そうだぞ。あの学校に通っているんだ」
アルフレッドは、目の前に見える大学の校舎を指さして言った。
「アーサーは社会人だろ?」
「あ? 何で分かった?」
「だって、君、スーツを着ているじゃないか」とアルフレッドは笑った。
ああ、そうだった、とアーサーも笑った。口角を上げ、笑うアーサーの顔が、あまりにも可愛く見えたので、アルフレッドは、思わず見とれてしまった。じっと見つめていると、アーサーはアルフレッドの視線に気がつき、居心地悪そうに、視線をさまよわせた。
「そんなに見つめんなよ……」アーサーは少し拗ねるように言った。
「あ! ご、ごめんよ!」アルフレッドは慌てて、恥ずかしさを隠すように俯いた。
信号が青になって、歩行者たちが横断歩道を渡り出す。アルフレッドも渡らなくては、と思った。学校に行かなくちゃ。だけど、このままアーサーと別れるのは惜しいように思われた。そのためにずっと踏みとどまっていた。なんでこんな気持ちになるのだろう。まだ会って二度目なのに。横断歩道を渡らないといけないのに、足が地面に張り付いたみたいになって動かない。体が言うことを聞かない。
「信号、青だぞ。行かないのか?」
「え? うん……行くぞ」アーサーに促され、アルフレッドはしどろもどろに返事をした。
そうだ、行かないと。アーサーが変に思っている。だけど、アルフレッドは未練がましく立ち止まっていた。
そのとき、木枯らしが吹いて、木の枝から千切れた小さな枯れ葉が、一枚、アルフレッドの頭の上に落ちた。アルフレッドが気付かないで居ると、アーサーは微かに笑って、優しい手つきで、それを手で払い落とした。自然、頭を撫でられる格好になり、アルフレッドは胸の高鳴りを感じ、顔が熱くなって落ち着かなくなった。
「……アーサー」アルフレッドは喉をからからにしながら声を絞り出した。
アーサーは、何か言おうとしているアルフレッドに気づくと、少し身を寄せ、耳を傾けた。「どうした?」
「今じゃなくても、君が暇なときで良いんだけど、その、お茶でもどうだい? おごるよ」
「いや、年下におごられてもな……」
「お礼をさせてほしいんだぞ!」アルフレッドは強引とも思えなくもない勢いで、アーサーに詰め寄った。
アーサーは一瞬、たじろぎ、そして、しばし考えた後、ゆっくりと頷いた。
「日曜日なら、他に用事もないし、誘われてやってもいい」
誘われてやってもいい、だなんて偉そうな態度だったが、アルフレッドは気にならなかった。ただ、アーサーと一緒にまた会えるというのが嬉しくて、満面の笑顔で、うんうん頷いた。
「わかったぞ。日曜日だね! じゃあ、今週の日曜日でいいかい?」
「ああ」
アルフレッドは天に舞う心地だった。彼とこうして次会う約束を取り付けている今が、至上の幸せに思え、興奮した。
「待ち合わせ場所はこの交差点にしよう。時間は正午で」
それからは早かった。日曜日になると、アルフレッドはさっそく交差点に向かった。そこでアーサーと落ち合い、近くのレストランで食事をし、お互いいくらかの話をした。同じ病気を持っていたから、その事について話したり、あとはたわいのない事をちらほらと。会話はよく弾み、楽しくて、アルフレッドは大いに笑い、浮かれた。アーサーは終始笑顔であり、彼もまた楽しんでいるようだった。帰り際になると、二人ともやけにぎこちなく、お互いの顔を伺っていた。アルフレッドはアーサーともう一度会う約束を取り付けたいと願った。だが、それは無理だ。今日アーサーが来てくれたのは、アルフレッドがお礼をするからと言う名目があったからこそだ。だから、彼がアルフレッドと再びこうして会うことは一生ないだろう。これっきりだ。アルフレッドはアーサーと会えなくなるのが悲しくて、暗い気持ちになった。
「アルフレッド、今日は、ありがとな」アーサーは言った。
「俺の方こそ、来てくれてありがとうなんだぞ」アルフレッドは首を振り、言った。アーサーと会話をすると、緊張して自然に頬が熱くなってしまう。
アーサーはアルフレッドの瞳をじっと見つめて、ぼうとしていた。アルフレッドもアーサーの緑色の瞳を見つめ、ぼうとしていた。春のような暖かい心地だった。つかの間、うっとりとした夢を見ている感じで、お互いを見つめ合った。
ボーン、とレストランの針時計が午後一時を知らせた。その音に、アーサーはハッと我に返り、身じろぎし、荷物を持って椅子から立ち上がった。
「じゃあ、またな」と彼は急いで何かを誤魔化すように言った。
「さよなら」
彼が帰ってしまう。ひとり、落ち込んでいると、アーサーはアルフレッドの肩に手を置いて、アルフレッドの右頬に軽く接吻した。彼にとっては何でもない挨拶だったのだろう。その証拠に、彼はすぐにレストランの出口へ向かって歩いて行ってしまう。だが、それを受けたアルフレッドは耳まで顔を赤くして、言葉もなく真面目な顔で俯いてしまった。手を震わし、どきどきする胸の音に耐える。目頭がカッと熱くなり、頭の中は真っ白だった。体がわなないてどうしようもなくて、そして、ついに何かがはじけた。
「アーサー!」
彼が行ってしまう前に、アルフレッドはアーサーを追いかけ、彼の腕を取って引き留めた。
アーサーは、驚くでもなく、動揺して瞳を揺らした。
アルフレッドは、自分の手のふるえがアーサーに伝わってしまわないように、彼の腕を握る手に力を込めた。
レストランに来ていた他のお客さんの視線を浴びる。
「外へ出よう」
そう言って、二人並んで外に出た。
アルフレッドは弱気だった。薄い紙っぺらになったような、頼りない心持ちだった。こんなに弱々しい気持ちになるのは初めてだ。彼に何て言って良いかわからない。ただ一つの言葉しか、頭に浮かんでこない。でも、それを言ってしまったら、今日彼とお茶をして楽しかった思いでも何もかもを台無しにしてしまうような気がして言えなかった。だが、代わりに浮かんでくる言葉もなく、アルフレッドは途方に暮れた。アーサーの顔をちらっと見ると、彼は何とも困った顔をしていた。迷惑をかけてしまったのだろうか。アルフレッドは彼を引き留めてしまったことに後悔した。だが、そうじゃなかった。アーサーは考え込むように顎に手を当てた後、アルフレッドと向き合った。
「もしかして、お前も俺と同じ気持ちなのか?」
アルフレッドは目を丸くした。
「俺はお前と居ると変な気分になるんだ。胸がドキドキするというか」とアーサーは少し顔を赤らめて言った。
それは、アルフレッドにとって重大な発言だった。体の底から勇気が湧いてくる。
「俺もだぞ。君のそばに居ると、胸がドキドキ緊張するんだぞ……」
アルフレッドの視線は真っ直ぐアーサーを見ていた。アーサーは黙っていた。しかし、すぐに安心したように肩の力を抜いて、ふ、と笑った。アルフレッドは何だか許されたようで、嬉しくて、胸の奥がむずむず痒くなった。ぽ、と心が温かくなる。
「抱きしめて良いかい?」興奮を抑えながら、アルフレッドは訊ねた。
アーサーは頷いた。
アルフレッドはアーサーの体を優しく抱きしめた。柔らかい手応えを感じて、愛しい彼を手に抱いていることに歓喜した。受け身だと思っていたアーサーは、自分からもアルフレッドの背中と頭の後ろに手を回すと、一気に自分の胸に引き寄せて、強引にアルフレッドの耳にキスを落とした。まさかキスされるとは思っていなかったアルフレッドは驚いて心臓が縮まった。唇が震え、涙が出そうになる。……彼もアルフレッドの事を好きだった。
アルフレッドが再び病院に薬を貰いにやってきたとき、彼の姿を見て、菊は、まるで冷水を浴びせられたようになった。アルフレッドの仕草の全てが色を帯び、落ち着いて、大人びていて、以前のアルフレッドとは違うことを思い知らされる。菊は衝撃を受けた。こうなることはわかっていたが、いざその時が来てしまうと、どうにも受け入れがたくて、困惑してしまった。
「……何か、変わったことは?」
「特にないよ」
嘘おっしゃい。あなた、変わっているじゃないですか。菊は無表情でカルテにメモを書き込む。誰だかわからない人に向けた怒りを押さえるのに必死で、半分息をしていなかった。視界もほぼなかった。カルテに書き込む字が震え、バランスなんかもめちゃくちゃで、ちょっと前に書いた字が、自分ですら解読できない。
「最近急に冷え込んできましたから、どうぞお体に気をつけてくださいね」
「うん、わかっているぞ。ありがとう先生」
そう言って笑うアルフレッドの色っぽいうなじや、赤い唇につい目が行ってしまう。彼の体、手足、彼の全部が男の欲情を掻き立てているように思えて、仕方がない。ああ、彼は大人になってしまった。
「行って良いですよ」
「さよなら」
「お大事に」
アルフレッドが診察室から出ていくと、菊は椅子から立ち上がった。
「少し席を外します」
菊は看護士に伝えて、自分の鞄を持った。菊は外に出た。黄色く紅葉したイチョウの葉が、はらはらと風に乗って舞い落ちる。肌寒い風が吹いて、微かに冬のにおいがして、菊は、ほうと息を吐いた。
秋も、そろそろ終わります。
ただいまコメントを受けつけておりません。