ヘタの米様贔屓ブログサイトです。 米受け二次小説を書いています。R18禁サイトです。
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病院の大部屋の一番隅っこのベッドで、アルフレッドは枕に頭を乗せ、横になり、ピンク色の壁をじっと見ていた。アルフレッドの右足はギプスで固定されており、更に右足がベッドにつかなように、右足だけフックに吊されて、ちゅうぶらりんに浮いていた。
骨折をした右足を治す手術は無事に終わり、今は痛み止めの薬を飲んで、安静にしている時間だ。
ベッドの傍らに、パイプ椅子を置いて、そこにアーサーが座っている。そのとなりに怪我をしたアルフレッドを心配して、アーサーと一緒にやってきたフランシスが立っていた。
「痛むか? アルフレッド」とフランシスは気遣わしげにアルフレッドに尋ねた。
「今は痛くないよ。薬がきいているからね」
「いかれた野郎め。よくも俺のアルフレッドに……」アーサーは大事な家族を余所者に傷つけられ、心底怒っていた。フランシスは、病院なんだから静かにしろとか何とか言って、アーサーの怒りを宥めた。
「そうだぞ。アーサー。静かにしてくれよ。騒いだりしたら他の人に迷惑じゃないか」
大部屋なので、他のベッドには別の入院患者が寝ていた。アルフレッドと同じように足や首を骨折している人や、骨粗鬆症の老人、などなど。
アーサーは怒るのを諦め、腕組みをしてアルフレッドを見下ろした。
アーサーは、アルフレッドが頭のおかしい男、イヴァンにどんな仕打ちを受けたのか、詳しく聞きたそうだったが、アルフレッドはそんなアーサーの様子に気づかない振りをした。なんだか、イヴァンからされたことを細かく話すのは、躊躇われたのだ。自分の弱さをわざわざ自分で語って聞かせるのが恥ずかしかったのかも知れない。そのほかに、イヴァンを庇いたいような気持ちも多少あった。ウクライナから聞いた可哀想なイヴァンの話が気にかかっていた。そんなんで、アーサー達が今知っているのは、アルフレッドが、ウクライナのイかれた弟に追い回されて、誤って崖から落ちてしまい怪我をしたという事だけだ。
「ウクライナ、という女の子が言っていたんだが、服は返さなくていいとよ」
あの日、イヴァンに服を燃やされ、着る服がなかったアルフレッドが代わりに着たイヴァンの服は、今は畳まれ、ベッドのサイドデスクの上に置かれている。
「……表情がぼんやりとしているな。こいつ、眠たいんじゃないか」とフランシスがアルフレッドを指して言った。
アーサーはアルフレッドの顔をじっとみる。
「別に眠たくはないぞ」とアルフレッドはアーサーに言った。
確かに頭がぼうっとして、同じ一点だけ見ていたいような脱力した気分であったが、眠いわけではなかった。
すると、アーサーは優しい顔になって、アルフレッドの頭を二、三度撫でた。彼は、弟を思いやる兄の顔をしている。こんな顔をアーサーにされる度、アルフレッドは、思い知るのだ。アーサーにとって自分はそれだけの存在でしかない。アルフレッドが欲してとうとう貰えなかった、アーサーの熱のこもった視線を浴びる事はできない。フランシスのような位置には決して行けないのだと。
いつもだ、いつもこの顔をされるたびに愛情の限界を目の当たりにする。アルフレッドは、この瞬間が、とても辛くて、心が締め付けられるように苦しかった。
「寝ろ。また明日くるから」とアーサーは汚れのない声で言った。どろどろとした愛や、愛憎を何も知らない、という風な格好で、彼は居る。良い。このまま知らなければ良いんだ。アルフレッドは心の中でひねくれたように言った。アルフレッドの淡く濃い気持ちに、彼は一生気づかなければいい。そして、永遠とフランシスと二人、愛し合っていればいい。その方がお互い平和なんだ。
アーサーとフランシスは、アルフレッドにお別れを言うと、病室を出て行った。それから、フランシスはアルフレッドにお菓子の置きみやげを置いていった。
彼らが居なくなってから、アルフレッドは窓に目を移した。青い空に白い綿雲がふわふわと浮いている。窓から見える街路樹は、黄色や赤色に紅葉し始めていた。こんな良い天気の日にベッドで寝ているのは勿体ないとアルフレッドは思った。アルフレッドは起きあがり、フックから足を慎重に下ろした。そして、ベッドの脇に立てかけた松葉杖と、フランシスから貰ったお菓子を掴み、ベッドから降りて、靴を履いた。慣れない手つきで杖を突いて、廊下にでた。
病院の中庭に出たとき、穏やかな風が吹いていた。秋らしい涼しい風であった。アルフレッドは植物園のベンチに腰掛け、フランシスから貰ったお菓子の袋を開けた。アップルパイだった。一口かじると、わずかにシナモンの香りがした。
食べながら、アルフレッドは考えた。
イヴァンという奴の事を。あれがかつてはまともな人だったとは信じられない。ウクライナから聞いたイヴァンの身に起こった事件の話を思い出す。あの経験が、イヴァンの心を闇に落とし、めちゃくちゃに破壊してしまったのだという。
人生って何だろう。アルフレッドは、ぼうとした頭の中で考えた。その不幸が一人の人間に降りかかるにしてはあまりにも重すぎる時、人はどうしたらいいのだろう。ただ自分の心が、大切な人の心が壊れていくのを受け止めるしかできないのか……。
[イヴァンの過去]
イヴァンちゃんが十五歳の時よ。私たちの母さんが再婚したの。父さんが病死して以来、母さんは女手一つで私たちを育ててきたわ。私たちは父親がいなくとも家族が居るから満足していたのだけど、ある時、母さんは知らない男の人を連れて生きたの。「新しいお父さんよ」と母さんは嬉しそうに言ったよ。太っていて、無精ひげが生えていて、体を油でてかてかと光らせていた男だった。彼は初対面の日から酔っぱらっていたわ。近くに立つと、彼の酒の臭いが臭ってくるの。くさくて適わなかった。名前はマルクと名乗った。マルクはその日から私たちの家で暮らすようになった。一緒に住んでいくうちにわかってきたことだけど、マルクは女を下に扱うきらいがあったわ。母さんには鼻の下をのばして、べたべた甘えるくせに、私や、ナタちゃんにはいつも冷たかった。私たちが側にいると、口汚く罵って、私たちを居ない存在に扱うこともしばしばだった。だけど、彼はイヴァンちゃんには好意を寄せていたわ。彼はイヴァンちゃんを買い物や、ハンティングによく誘っていた。イヴァンちゃんは優しいから彼に付き合ったわ。私は大事なイヴァンちゃんを汚らしいマルクに取られるのが嫌だった。ある時、私はイヴァンちゃんを小屋に呼んで言ったわ。「マルクと出かけるのはもうよして。私、あの人は嫌いなの。イヴァンちゃんがあの人と楽しそうに出かけるのを見るのは私、嫌な気分だよ」
「ごめんね、姉さん。でも、ハンティングは楽しいよ……」
まあ、イヴァンちゃんどうして! 私は自分の気持ちを分かってくれないイヴァンちゃんにやきもきしたわ。
「あんな男と居るのを楽しんじゃダメよ!」
「なんで?」
「だって! あの人、私やナタちゃんのことをいつも悪く言うんだよ。そんな人とあなたは仲良くしていて楽しいのかな!?」
私はイヴァンちゃんの胸を度突いた。
「うーん……それは、ダメだね」イヴァンちゃんは度突かれ胸を押さえて苦笑いしながら言った。
そんなやりとりをした後も、イヴァンちゃんはマルクと出かける事をやめなかった。イヴァンちゃんが私たちから離れていく。男の子だから仕方がないのかなって、私はナタちゃんと話していたわ。今まで女に囲まれていたから男の人の存在がイヴァンちゃんには心地いいのね。って。
暑い夏の日の夕方。空は夕日が出て、赤くなっていた。ナタちゃんが学校から泣きながら帰ってきた。その日もイヴァンちゃんはマルクに誘われて狩りに出掛けていた。私は泣いているナタちゃんを椅子に座らせると、すぐに井戸から冷たい水を汲んできて、ナタちゃんに飲ませてやったわ。
「いったいどうしたのかしら?」
「学校で、虐められた……」ナタちゃんは涙を手で拭いながら弱々しく言った。
「え?」私の可愛い妹を虐めるなんて! 私は小さくなって泣いているナタちゃんを見て、とたんに怒りで体がふるえてきたわ。「誰に? どんな事をされたの?」
「学校のみんなに言われた。お前の兄貴はケツマンコ野郎だって……っ」
ナタちゃんは、わっと泣き出した。
「兄貴って、イヴァンちゃんの事? イヴァンちゃんがケツマンコ野郎だって言ったの? その人たちはっ」
私は怒りながら拳を振り上げて宙を殴った。
「姉さん……。でも、その人達が言うことは本当なんだ。しゃ、写真をもらったの……」
ナタちゃんはスカートのポケットから、しわしわになった一枚の写真を取りだした。そして、それを私に差し出したの。私は写真を受け取って、映っているものをじっくり見たわ。映っていたのは林の中らしく、そこに二人の裸の男が地面に寝そべっていた。よく見ると、それはマルクとイヴァンちゃんが裸で絡み合っている姿だったの。そして、マルクの汚らしいペニスがしっかりとイヴァンちゃんのお尻の中に入り込んでいるのもわかった。頭が真っ白になって、写真を持つ手が震えた……。こんなにもおぞましい写真は初めて見た。だから、どう対処したらいいのか、咄嗟に頭に浮かんでこなくて、ただ、恐怖に唇をわななかせているぐらいしかできなかった。
「兄さんは……」ナタちゃんはイヴァンちゃんがまたマルクと出掛けいる事に気づいた。今も、この写真のようなことをマルクと一緒に……。ナタちゃんの目が、そう言っていた。
「違うのよ、ナタちゃん。イヴァンちゃんは今買い物に行っているの。私がお使いを頼んだから。大丈夫よ。こんな写真うそよ。誰かがいたずらで作ったのよ。イヴァンちゃんを嫌っている奴の仕業だよきっと。許せないね。お姉ちゃん、ちょっと懲らしめてくるから」
私はナタちゃんを一人家に置いて、真っ直ぐ山に向かった。イヴァンちゃんとマルクが、いつも狩りに行く山よ。私はどうしても確認せずには居られなかったの。写真が本物なら、確かな物がこの目で見られると思って。草木をかき分けて、靴や服が泥で汚れようが気にならなかった。私が気になるのはただ一つイヴァンちゃんの事だけ。それで……。私は……やっと二人を見つけたの。その瞬間の打ちのめされようと言ったらなかったわ。アルフレッドさん、わかるかしら。目の前で、大切な宝物が、壊されていたのよ。だけど、私は何もできなかった。わからなかったの。もしかしたら、イヴァンちゃんとマルクは愛し合っていて、私なんかが手を出しちゃいけないんじゃないか、って。邪魔をしたら、イヴァンちゃんを悲しませてしまうかもって。そう思ったの。だから何もせず、あれを見た後、私はそのまま家に帰ったの。でもこの行動は間違いだった。この日の私の行動がが間違いだったと気づくのには少し時間がかかったわ。その間、イヴァンちゃんはマルクとのことで学校で虐められ、辛い日々を送り、やがて、心が病んでいった。ある夜中、私は急な胸騒ぎを覚えて目が覚めた。水を飲もうと、下に降りていったら、バスルームの明かりが点いていたの。嫌な予感がして、私はバスルームのドアをそっと開けたわ。ほんの数センチだけ。その隙間から見えたのは、実におかしな光景だった。……血よ。真っ赤な血か一面に。私はドアを全開にした。イヴァンちゃんが床にぺったりと座り込んでいた。彼の手首からは血が、どくどくと流れていたの。私はイヴァンちゃんを正気づかせようと、泣きながらイヴァンちゃんの頬を殴ったわ。何度もよ。
「何でこんなことを! イヴァンちゃんどうして!」
「姉さん、ふふ……。僕、もうダメかも……もう嫌なんだ。何もかも」
終わりにしたいって、イヴァンちゃんはうつろな目で言ったわ。こんなイヴァンちゃん、今まで見たことがない。私は不安になった。
「何があったの? 正直に話して」
「知ってるくせに……」
イヴァンちゃんは、私を凄く冷たい目で睨みつけた。
「あのとき、姉さんは見ていたよね。でも、逃げた。凄く辛かった。僕は姉さんに、助けてほしかったのに……」
「あのとき……? あのとき、っ、あの時……っ!」あの時よ。私は、はっと、頭が乾いていく心地だった。ナタちゃんを置いて、山に駆け込んだあの時よ。イヴァンちゃんは助けてほしかったんだ。なのに私ったら……。
「僕、おかしいんだ。日に日に、僕が僕じゃないみたいになっていく。心が壊れていくのが分かるんだ。辛いよ。助けて姉さん……」
「ごめんね! イヴァンちゃん! 私、分からなかったの! どうしたらいいか! そうだね、イヴァンちゃんは助けてほしかったんだよね。ごめんね、お姉ちゃん気づかないでごめんね! バカなお姉ちゃんでごめんね……!!」
「いいんだ、姉さん。仕方がなかったんだ。それに、あの時は助けに来てくれなかった方が正解だったかも知れない。だってね、あいつが言うんだよ。姉さんやナターリャを僕の代わりに犯したいって。でも、お前が大人しくやらせ続けてくれるなら、二人には手を出さないって。僕ね、二人には無事でいて欲しいって思ったんだ……。お、女の子はさ、すぐ子供が出来ちゃうじゃない。だから、男の僕がやらないとって……」
イヴァンちゃん目からは、大粒の涙が流れていた。
「こんなに辛いのに、頑張って耐えて、僕って凄いなって思うのに、学校に行くと、みんなからからかわれるんだ。そうすると、頭がぐちゃぐちゃになって、僕がわからなくなっちゃうの。僕の僕が僕から引き離されてばらばらになっていくんだ」
うふふ、とイヴァンちゃんは笑う。「昨日の僕は、今日の僕じゃない。今日の僕は明日の僕じゃない。毎日違う僕が居て、その日の僕はその日の内に消滅してしまうんだ。僕、おかしいのかな?」
私たち兄妹は、家出した。マルクのそばには居られなかった。母さんはマルクを愛していたし、別れさせるのは巧くなかったの。そして、今あるこの家に来たのよ。元の家の人は引っ越したのか、誰も住んでいなくて私たちは、自分たちで家の脆いところを補強して、この廃墟同然だった家を立て直した。つらい記憶のある土地から離れたというのに、イヴァンちゃんの心は病んだまま戻らなかった。そればかりか、悪化していった。夜になるとイヴァンちゃんはうなされていたわ。私とナターリャは必死にイヴァンちゃんの心を慰めたけど、どうにもならなかった。過去の記憶が毒となって、徐々にイヴァンちゃんの心を蝕んでいったの。そして、イヴァンちゃんはとうとう完璧に狂ってしまったのよ。
アップルパイを食べ終わったアルフレッドは、服に落ちた薄いパイ生地の破片を手で払って、杖を支えに、ベンチから立ち上がった。すると、どこからか鳩が集まってきて、アルフレッドが落としたパイの破片を、啄み始める。アルフレッドは珍客の来訪に少し微笑み、病院に戻ろうと歩き出した。
植物園を右手に、病院の裏の駐車場方面に向かって歩く。そこから病院の裏口に出るのだ。正面入り口から近いエレベーターはいつも混雑しているので、空いている裏口からすぐのエレベーターを使いたいとアルフレッドは思ったのだった。
痛み止めの薬が切れ始めたのか、怪我をしている右足に、ちり、と痛みのようなものを感じるようになってきた。さらに強い痛みを感じるようになる前に、自分のベッドに戻ろう。そして、看護師さんに新しい薬をもらおう。アルフレッドは歩く足を早めた。しかし、あまりに足を急ぎすぎたせいで、アルフレッドは小石に躓き、地面に倒れてしまう。その時に、痛んだ右足を下敷きにしてしまって、右足を灼熱の痛みがおそった。
「ああぅっ!」
しばらく地面の上でのたうち回った。汗がぶわっと沸き出て、心臓がどきどきどきどきと激しく鼓動する。痛みを押さえるために、呼吸は自然、細く、弱々しいものとなる。
「大丈夫? 立てる?」通行人に声をかけられる。
手をさしのべられ、アルフレッドは、その手を掴んで起きあがった。
「大丈夫かな」
ああ。心配してくれてありがとう。もう大丈夫だぞ。そう言おうと思った。だが、その言葉は喉の途中で止まり、発せられなかった。というのも、アルフレッドは目の前の男に、いきなり首を絞められ、声を出せなかったのだ。アルフレッドは動転し、ひゅっと短く息を吸った。
ぐぐっと首に男の指が食い込む。力一杯締められているせいで、脳に行く血が止まり、脳味噌は酸欠を起こし、縮小し始める。頭が熱い。だんだん意識が暗くなっていく。
「やっと見つけたよ。いろんな病院を探したんだ。君の姿を求めてね」
そう言うと、男は、アルフレッドを乱暴に地面に突き飛ばした。新鮮な酸素を再び吸い込むことが出来たアルフレッドは咽せて、激しくせき込む。
「君に盗まれた僕の服を返してもらいに来たんだ」
アルフレッドは自分を見下ろす男の顔を睨みつけた。シルバーブロンドの柔らかい髪は見覚えがあった。……ああ、懐かしい。イヴァンじゃないか。嬉しくはない。だが、アルフレッドは挑発的な笑みを浮かべる。
「君のお姉さんは服は返してくれなくていいって言っていたんだぞ」
アルフレッドは、自分の身の潔白を証明するために説明した。
「何を言っているの? 僕の服を姉さんが勝手に他人にあげるわけないじゃない」イヴァンはアルフレッドの発言を嘘だと決めつけ、バカにするように嘲った。
「でも、本当に……」
「生意気だね。もう余計なことは言わなくてもいいよ。で、僕の服はどこにあるの?」
「病室さ」
「案内してよ」
アルフレッドは苛々と頭に来ていた。なんたってこの男は暴力的なんだろう。後ろを着いてくるイヴァンをちらと盗みながら思う。彼の過去がなんだというのだ。そりゃ、可哀想だとは思う。だけど、傷つけられ、いたぶられた過去があるからこそ、人は人に優しくしようとか、そういう気持ちになれるんじゃないのか。なのに、イヴァンはどうしてそういう気持ちになってくれなかったのか。
「歩くのが遅すぎるよ。もっと早く歩けないのかな」
後ろからイヴァンに急かされ、アルフレッドは頭に来た。
「君にはこの右足が見えないのかい? 仮にも怪我人に向かって早く歩けだとか君、頭悪すぎだぞ!」
と、言いながらもアルフレッドは少し歩調を早める。早く服を返して、イヴァンを追い返そう。アルフレッドは病院の建物に入り、上へ登るためのエレベーターを目指す。だが、途中の曲がり角にさしかかった時だ。急に目の前に子供が飛び出してきたのだ。アルフレッドは驚き、松葉杖を取り落とした。そのまま体のバランスが崩れ、アルフレッドの体が後ろに傾いでいく。倒れると思った。だけど、倒れなかった。イヴァンが、アルフレッドの背中を後ろから支えてくれたのだ。
「あ、ありが……」
「走ったら危ないよ」イヴァンが子供に注意する。
「ごめんなさーい」子供は申し訳なさそうに謝ると、そのまま、また走ってどこかへ行ってしまった。
イヴァンは、そんな子供を見て、ため息をつき、それからアルフレッドを真っ直ぐに立たせると、床に転がった杖を持たせてくれた。
「ちゃんと前を見て歩こうよ」
「わ、わかってるんだぞ!」
アルフレッドは、しっかりと杖を掴み直す。廊下の曲がり角には細心の注意を払って歩き、アルフレッド達はエレベーターホールにたどり着いた。上に行くボタンを押すと、まもなく、エレベーターが降りてきた。がたん、とエレベーターのドアが開く。二人は中へ入った。
「何階?」
「7階だぞ」
アルフレッドの代わりにイヴァンが階数のボタンを押す。
ドアが閉まり、エレベーターが上に登っていく。二人の他に人は居ない。1、2、と増えていく数字を眺めながら、狭い箱の中で二人、無言だった。無言というのは、どうにも気まずい。アルフレッドは変に緊張して、そわそわとしていた。ちら、とイヴァンの顔を伺うと、彼は平然としているようだった。自分だけ動揺して馬鹿みたいだ。アルフレッドはイヴァンから視線を逸らす。そんなアルフレッドの様子に気がついたのか、
「僕のこと恐い?」とイヴァンが壁を見つめたまま尋ねてきた。
「え?」
「正直に言って」
いったい、何が言いたいのだろう。恐いと言ったらどうするつもりだろう。
アルフレッドはイヴァンの顔から感情を読み解こうとするように、その顔をじっと見つめた。そして、迷った後、口を開いた。
「だって、君は……暴力を振るうじゃないか」暴力を振るう人間は恐い。
「うん」
うんって。アルフレッドは次はどう言ったらいいのか分からなかった。雑巾を絞るみたいに何とか言葉を口から絞り出す。
「君が過去、嫌な思いをしたのはわかるけど、でも暴力はいけないと思うんだぞ。傷ついたなら、その分、君はもっと……」
ダンッ! イヴァンがエレベーターの非常停止ボタンを殴りつけるように押した。アルフレッドは驚いて、肩がびくりと跳ねた。エレベーターは大きく揺れながら5階を昇る途中で停止した。アルフレッドは気づく。自分は彼を怒らせてしまったのだ。アルフレッドは怖々イヴァンの顔色をうかがった。
「僕の過去……?」イヴァンは俯き、声を震わしながら言った。
「え?」アルフレッドは背筋に冷たい汗が流れていくのを感じた。彼が怒っていると思った。
「僕の、過去……?」次に聞こえたイヴァンの声は泣きそうだった。いや、泣いていたのかも知れない。
彼にそんな声を出されて、アルフレッドは驚き、戸惑った。同時に体を強い罪悪感が襲う。大の男を泣かせるなんて自分は何を考えているのだろう。彼は過去のトラウマで心が病んでしまったのだ。なら、自分は彼に過去を思い出させるような発言をしてはいけなかったはずである。心の傷をほじくられ、彼はそうとう傷ついたに違いない。
「ごめん」アルフレッドは反省し、謝った。
イヴァンは静かに首を横に振った。
「みんな僕を苦しめるんだ……みんな、みんな……」くすくすとイヴァンは笑い出した。ぞっとした。アルフレッドは冷や汗をかく。そうじゃない。別に傷つけたかったわけじゃない。泣きながら笑うイヴァンを見て、自分は大変なことをしでかしたと思った。
「イヴァン……」
イヴァンはアルフレッドを振り返ると、何の躊躇もなく、アルフレッドの頬を打った。打たれた勢いでアルフレッドのメガネが吹っ飛ぶ。痛みで両目に涙が浮かんだ。イヴァンは楽しそうに微笑んだ。だが、その笑みは冷たかった。まるで人の痛みを喜んでいるような顔である。イヴァンの気迫に圧倒され、アルフレッドは後ずさる。とんと、冷たい壁に背中がついた。
「僕のこと、恐い?」イヴァンは言った。
アルフレッドは声が出なかった。狂った人間を前にして、圧倒され、思考が停止していた。こうして真っ正面からイヴァンの顔を見ていると恐ろしくてたまらなくなってくる。自分の立ち位置があやふやになって、意識が遠のいていくようだ。すぐにでも逃げたい、すぐに。
「実は……僕も恐いんだ……」
アルフレッドは耳を疑った。イヴァンの口からとんでも無いことが飛び出た。人に暴力を振るって置いて恐いだなんて。
「僕も、自分のことが恐い……」イヴァンは確かに言った。かなり小さな声だったけど。その顔はとても苦悩に満ちていた。
「ごめんね……」と、イヴァンは口の動きだけで言った。それも、イヴァンの顔を凝視していたアルフレッドには、ちゃんと伝わった。アルフレッドは何ともいえない気持ちになった。心の奥底でイヴァンに同情している自分がいた。酷いことをされたのに、まるでそんな記憶はどこかへ消えてしまったようである。なんと言うことだろう。目の前の彼が惨めで可哀想に見えるのだ。苦しんでいる彼を見て、助けてあげたいと思った。苦痛に震えているこの大きな男が、痛ましく思えた。
アルフレッドはイヴァンの体に手を伸ばした。そして、彼の体を自分の胸に引き寄せた。アルフレッドは、小さな子供を抱きしめるみたいに、イヴァンを抱きしめ、頭を撫でていた。
「可哀想に……」
イヴァンが可哀想だった。たくさん苦しんでも、苦しみから逃れられない彼の人生が、辛くて、悲しかった。
「大丈夫だぞ……君は、よく頑張ったぞ」アルフレッドはイヴァンを励ますように言った。
すると、イヴァンはアルフレッドの肩を押して、まじまじとアルフレッドの顔を見つめた。イヴァンの顔は複雑そうに歪んでいた。アルフレッドもイヴァンの顔を見返す。イヴァンの瞳孔がゆっくりと開いていく。
「……キス、してくれる?」
イヴァンは突然囁くように言った。
「君にキスされたら、僕の心が晴れる気がする」
「き、キス……?」
アルフレッドは驚いたが、しかし、しまいには了承し、頷いた。だって、イヴァンの顔があまりにも真剣で、苦しそうだったから。これ以上、彼は、きっと苦しみに耐えられないだろう。そう思ったから。それほどせっぱ詰まった顔をしていたから。自分のキス一つで彼の心が安らぐのなら、彼を助けてあげたいと思った。
アルフレッドはイヴァンの口に優しいキスを落とした。イヴァンも、そのキスに答えた。やけに長いと思ったキスは、実際には1分程で、短かった。[newpage]
アルフレッドは赤面していた。自分がしたことを思い出すと、恥ずかしくて、じたばたと暴れ出したい気分だった。
今、アルフレッドは病室のベッドの上にいる。イヴァンは、服を返した後、追い返した。窓の外は真っ暗で、もう夜だった。病室を、白い蛍光灯が照らしている。窓ガラスに自分と、部屋の景色が映っている。アルフレッドは窓ガラスに映った自分の顔が、変な顔をしているように見えて、顔を無理矢理くしゃくしゃに歪めた。
仰向けになって深呼吸してみる。はたまた、顔に力をいれ、眉をひそめて難しい顔になってみたりする。そんなことをしても恥ずかしさは収まらない。泣き叫べば気持ちが落ち着くかな、と思ったが、もう自分は泣いてどうにかなるような歳じゃないと後から気づく。
なぜあんな事をしたのだろう。冷静になってから、自分の愚かさに恥ずかしくなった。
キスをした。してくれと、言われたから。仕方がなく。恋人でもない男同士で。普通に考えておかしな話だ。キスなんて。でも、自分のキスでイヴァンの心が癒されたなら、それはそれで良かったのかも知れない。アルフレッドはとりあえず布団の中に潜った。心臓がどきどきと興奮で打ち振るえていた。
イヴァンは今、どうしているだろう。とアルフレッドは思った。自分と同じようにキスを思い出して、恥ずかしがっているのかな。それとも、彼の心は、安らぎの中にあるのだろうか。
怪我の経過も良く、アルフレッドはすぐに病院を退院できた。病院を退院してからは、家でリハビリを続け、やがて、杖がなくても歩けるようになった。
明くる日、アルフレッドは家の外に出て、山に向かって自転車を走らせた。その日も例のごとく、欲にふしだらな兄が家を占拠していたのだ。すでに秋は終わりに近づき、ぴゅうぴゅうと冷たい風が吹いていた。山の木の葉はどれも紅葉し、すでに殆どの葉が散って禿かけていた。冬が近い。
アルフレッドは路肩に自転車を停めると、山の中へ入った。べしゃべしゃと湿った土を踏むと、心が落ち着いた。冬が近いこともあり、虫の姿は少ない。みんな木や、土の中に隠れているのだ。天から小鳥のさえずりが聞こえる。アルフレッドは、そのまま山の中を散策した。虫を捕ろうとか、そんな事は考えていなかった。ただ、歩きたいと思った。長らくその辺を歩き、疲れると立ち止まった。アルフレッドは、ぼうと森の奥を眺める。まるで何かを待っているかのように。アルフレッドは初めてイヴァンと会ったときのことを思い出していた。ずいぶん嫌な目にあったと思う。だけど、彼に受けた仕打ちよりも、彼自身のことを思い、なんでか悲しくなった。切なくて、やるせない気持ちになった。
ここに来て、アルフレッドは、イヴァンに会いに行ってみようかな、なんて、変なことを考え出した。すると、自然に足が動いていた。道は、覚えていた。
いざ、おんぼろの小屋の前に立つと、足がすくんだ。ここまで真っ直ぐ来れたのに、これ以上先には進めない。進んじゃいけないと思った。ただ、家を見ただけで十分満足だった。アルフレッドは来た道を引き返すことにした。
ざ、ざ、ざ、ざ。びちゃ、びちゃ、びちゃ、びちゃ。うつむいて、自分の足を見ながら歩いていた。
だから、ちょっと行った先に、まさか人が立っていたなんて思わなかったのだ。
「久しぶり」
はっとしてアルフレッドは顔を上げた。歩く足はすっかり止まっていた。イヴァンが目の前に居た。彼は、にこやかにアルフレッドに向かって微笑みかけていた。極々自然な、非常に落ち着いた笑みである。これはアルフレッドにとっては驚きであった。こんなに優しい笑みを彼は作れるのかと感心した。だって、アルフレッドの知っているイヴァンの笑みといえば、どこか笑っていないような冷たい笑みだけだったのだから。
「やあ、元気だったかい」アルフレッドは言った。
「うん、そうだね。元気だったよ」イヴァンは首を傾げ、言った。花びらみたいに繊細で柔らかい笑みだった。
ああ、違うな。雰囲気が。アルフレッドは思った。前、彼と会った時と雰囲気が違うくなっているのだ。以前は、彼の体からぴりぴりとした陰険なオーラが出ていた。だけど、今は、より親しみやすくなった。
「それじゃあ」イヴァンは、ただ、それだけ言うと、アルフレッドに背を向け立ち去った。
完