実験を受ける前に、アルフレッドは簡単な健康診断を受けた。尿を検尿カップに出して、血圧と、身長体重を量った。眼鏡の上から視力検査もやった。他の被験者も居るという話であったが、アルフレッドはまだ他の被験者の姿を見ていない。健康診断が終わると、裸の体に心拍数などを計る機械や器具を取り付けられた。
「これから、あなたはとある部屋に入ります。その部屋は真っ暗で、明かりはいっさいありません。私はあなたをその部屋に閉じこめます。あなたは指示があるまで動いてはいけません。どんなことがあっても絶対に喋ってはいけません。私たちは時間を見て、アナウンスで、あなたに指示を出します。あなたは、スピーカーから聞こえた指示の通りに動いてください。もし、指示を無視するようなことがあれば、あなたの立場は、辞退者とし、報酬はいっさい支払われない事とします。よろしいですか」
厳しいなあ、と思いながらアルフレッドは口を開く。「その指示というのは、難しい事じゃないんだろ? たとえば、極端な話、人を殺すとか、自分を傷つけるとか、そういうんじゃあないんだね?」
「もちろん。指示の内容はいたって簡単です。我々はこのテストを安全に終えるつもりですので、どうぞご安心くだされ」
アルフレッドは緊張した面もちで頷いた。
アルフレッドとコリーンは地下に移動した。実験は地下で行われるらしい。実験室と書かれた重い扉を開けると、アルフレッドは広い縦長の部屋の中に入って、両側にずらりと、大きな金庫のようなものが並べられているのを目にする。コリーンはその中の端っこの金庫を開けた。
「中へ」とコリーンは言った。
アルフレッドは促されるままに金庫の中に入った。中のスペースは半畳ほどであり、金庫の高さはアルフレッドの背丈よりも少し高いくらいであった。まさに人一人分の広さである。
「指示があるまで座っていてください。どうぞ、楽に。ですが、絶対に指示があるまで動いてはダメですよ。喋るのはもっとダメです。もし、喋りそうだと不安であるならば、ホッチキスをこちらで準備しておりますので、今、申して下されば対処いたしますよ」コリーンは悪戯っぽくにやりと笑う。
「大丈夫だぞ。指示があるまでじっとしているよ」アルフレッドは肩をすくめながら言った。
「閉めますよ」
「いいよ」
コリーンが扉を閉める。アルフレッドは完璧な闇の中に落とされた。
暗闇の中で、アルフレッドはキョロキョロと目を動かして、辺りを見渡した。どこを向いても闇である。眼球にタールを塗ったみたいに、見えるのは全部黒い色だけだった。ただ、自分の呼吸する音が、やけに大きく聞こえている。大きく聞こえるのは静かにしているせいだ、とアルフレッドは思った。
闇の中では壁との距離感がつかめない。闇の中にずっと居ると、自分が狭い金庫の中にいるんじゃなくて、宇宙のような広大な空間にぽつんと座っているんじゃないかと思えてきて不安になる。アルフレッドは手を伸ばして、壁に触れようかと思ったが、自分は動いてはいけなかったんだと思いだし、慌てて拳を握り、肘を脇にくっつけた。
何十分くらい、そうしてじっとしていただろう。もう自分が目を開けているのかいないのかすらわからない。ただ、ずっと座っているのにも飽きてきた。だが、突然、ぽん、とピアノの高い音の出る鍵盤を一つ叩いたみたいな、そんな音が鳴った。
「指示を与えます。今あなた方の居る所は一人部屋ですが、実はそこは二人部屋です。無理矢理仕切を作って一人部屋にしていたのです。今から機械動作で仕切を外します。隣の人と対面しても、動かないように、喋らないようにお願いします」コリーンの事務的な声が天井の辺りから聞こえてきた。きっと天井にスピーカーがついているのだ。それにしても、隣の人だって? アルフレッドは急にそわそわ落ち着かなくなった。仕切は右なのか左なのか、それとも背後なのか。
がー、と滑車が回るような低く、鈍い音が右横から聞こえだした。どうやら仕切は右だったらしい。仕切が、今まさに取り払われていく。アルフレッドは右側を凝視した。何か見えるんじゃないかと思ったのだ。その、隣の人の一部とかが。しかし、いくら目を凝らしても、何も見えない。当たり前だった。光がなければ何も見えないのだ。闇は闇のままである。それでも、きっと見えるんじゃないかと、僅かな期待を持って見つめ続けた。
見えない。だが、音が聞こえた。
自分以外の呼吸音だった。呼吸の出入れの小さい音が、すぐ隣から聞こえてくる。アルフレッドは、それを聞いて途端に胸の心臓がひっくり返るようだった。ドキドキと興奮した。暗闇に一人閉じこめられているという意識は、今は、この人と一緒に閉じこめられている、という意識に変わったのだ。右にいる人は、男の人だろうか、女の人だろうか、若いのか、年老いているのか、アルフレッドは気になった。
「じっとそのまま動かないで下さい。喋らないように」コリーンのアナウンスが入った。
アルフレッドは隣の住人を気にしながらも、大人しくしていた。
ずっと同じ姿勢をしているせいで、だんだんと体が痛くなってきた。とくに地面と触れている尻が痛い。体を思いっきり伸ばせたらどんなに楽だろう。アルフレッドはそんな事ばかり考えていた。
ぽん、とアナウンスが鳴った。
「どうぞ、みなさん。疲れてきたかと思われます。体を自由に動かしてみて下さい。ただし、喋ってはなりませんよ」
朗報にアルフレッドは心から喜んだ。やっと尻の苦しみから解放される。とりあえず腕を伸ばし、伸びをしてみる。すると、隣の人も一緒に身動きをしたらしく、アルフレッドの右手の指先に何か、柔らかいものがぶつかった。アルフレッドは驚いて、腕を引いた。おそらく、先ほど隣の人の体の一部に触れたのだ。
アルフレッドは隣の人にまたぶつかるようなことがないよう、距離を置くため、左側の壁に身を寄せる。隣の人も、ごそごそと、衣が擦れる音を出しながら、動いていた。
楽な姿勢をとりながら、アルフレッドは、ぼうと闇を眺めていた。何もすることがないと言うのは退屈だし、つまらない。ぼうとするのに飽きると、アルフレッドは思考を巡らし始めた。この実験はいったいどんな心理を計ることを目的にしているのだろうか。次はどんな指示がやってくるのだろう。本来アルフレッドは、うんうん唸って考える事が苦手なのだ。今は他にすることが何もないので、仕方なく考えている。やがて、アルフレッドはそれを考えることを放棄し、アルフレッドは隣にいる人に注意を向けた。だけど、隣の人も、何をするでもなく、じっとして、息をしているだけなので、アルフレッドはだんだん、音の出る加湿器を隣に置いているような、変な気分になってきた。退屈だった。時間の流れが、とても遅く感じる。
「指示を出します」
だいぶ時間が経ってから、コリーンのアナウンスが始まった。
「えー……、あなたの隣の人と手を繋いで下さい。喋ってはいけません」
放送が終わると、アルフレッドは、さっそく右手を伸ばした。指示の通りに動かなくてはならない。たとえ繋ぎたくなくても、それは許されない事だった。
隣の人の手が、どこにあるのか見えないので、アルフレッドは自分の手を宙でさまよわせて、隣人の左手を探した。ばし、と何かに手を叩かれる。だけど、あっと思う間もなく、それは、すぐにアルフレッドの右手首を掴み、アルフレッドの手のひらを、逃がさないと言いたげに強く握ってきた。だが、強く握ったのは最初だけで、その後は、力を入れず、緩い握り心地になった。
アルフレッドは自分から相手の手を見つけて握るつもりが、逆に向こうから捕まえられるような形で握られてしまったので、驚き、うろたえた。そりゃあ、相手だって生きた人間である。意志を持って、自分から動いたりもするのは当然だ。だけど、変な事だが、アルフレッドは、相手が動かないものだとでも思っていたようなのだ。だから、こうして先に動かれて、びっくりしている。
更に、アルフレッドは、他人と手を握っている今の状態が何だか恥ずかしかった。自分の体が小さくなって、右手だけが巨大化したような気持ちだった。神経が全部右手に集中しているようだ。それほど、他人と握られた右手の存在感が大きかった。
自分の手が汗ばんでいないか、震えていないか、アルフレッドは、ちらちらと気にした。とにかく、自分の緊張が隣の人に伝わることを、アルフレッドは恐れた。
人は初対面の相手に良い印象を与えたいと願っているものである。決して変人だなんて思われたくないのだ。それが故に、アルフレッドは自分の左手が、正常であることを望んだ。
手が気になって、胸がそわそわ落ち着かない。緊張のしすぎで気分が悪くなり、アルフレッドは右手から意識を離す努力をした。その為、アルフレッドは闇を鬼の形相で睨みつけるのを二十分ばかし続けなくてはならなかった。なぜ二十分かと言ったら、二十分経ったその時、隣人の手がピクリと動いたのだ。その動きに意識を持って行かれたアルフレッドは、鬼の睨みを中断せざるを得なかった。隣人の手が動いたのは、その一回きりで、後は普通に手を握っていた。何のつもりで動いたのか。アルフレッドはわからない。動いたことに、まるで意味はなかったのかもしれない。
アナウンスが鳴った。
「みなさまお疲れさまです。最後の指示を出します。これで最後です」コリーンが盛大に息を吐いて、言った。
さて、いよいよ最後の指示だ。これが終われば、金庫から出られる。お金も手には入る。なんだって来い。アルフレッドは手を揉んで待ち望んでいた。だが、コリーンの口から出た命令は、とても難しいものだった。
「最後の指示です。隣人とキスを交わして下さい。喋ってはなりません」
キス。顔も声も知らない、今日会ったばっかりの他人とキスをしろ。
出来るわけないぞ! アルフレッドは青ざめ、頭を抱えた。好きでもない相手とキスなんて嫌だ。汚れのない純粋な心を持ったアルフレッドは、そう思った。だけど、やらないと終わらないのだ。それはわかっている。
隣人がアルフレッドの右手を引っ張った。奴はやる気だ。だが、アルフレッドは拒否した。手を引かれても、体を石のように固くして梃子でも動かなかった。
どうせここは暗い。キスをしなくてもばれないだろう。そういう甘い考えがよぎった。だが、よくよく考えてみれば、金庫の中に暗視カメラが仕掛けられているのは明白だった。なんせ、実験なのだ。実験を観察する者は、実験を細部まで見届けるのが仕事だ。カメラは確実に仕掛けられているだろう。
アルフレッドは腹をくくり、深呼吸して、隣人の方に体を向けた。隣人はアルフレッドの腕に触れ、上の方に手を辿っていく。隣人はアルフレッドの唇を探しているのだ。アルフレッドも両手を伸ばし、隣人の顔の場所を探した。すると、細い、筒状のものに触れる。おそらく首だ。アルフレッドはそのまま手を上に辿る。ぽっこりとした喉仏があった。男? まだわからない。少々不安になりながら、アルフレッドは手を上に持って行く。しっかりとした顎のエラの形がわかる。耳の後ろに手を持って行くと、長めの髪に触れる。うねりのある髪だった。手櫛がよく通り、サラサラとシルクの肌触りだ。そして、髪に入れた手を動かすと、微かに、シャンプーの香りが匂った。アルフレッドは両手を髪から離し、隣人の頬に触れる。なめらかな頬の上を滑らせるように手を動かし、口を探そうと顎に触れると、太い毛のチクチクとした、ざらつきがあった。顎髭だった。え……? ……男!?
だが、次の瞬間、アルフレッドの唇は塞がれた。頭を支えるようにされ、何度も角度を変えながら、アルフレッドの唇は隣人のプロテクニックによる舌技で味わいつくされた。
こんなに疲労した気持ちは初めてだ。たぶん男とキスをしたせい。仕事みたいなもので、そこに意味はなく、機械的な接触と考えればいいのだろうけど、ファーストキスを男に奪われたと思うアルフレッドの気持ちは、どんぞこであった。
実験は終わり、被験者同士が鉢合わせにならないように、一人づつ順番に金庫から出された。隣人はアルフレッドよりも先に出て行った。
やがて、アルフレッドも金庫から出され、体にに取り付けた機械をコリーンに返して、簡単な診断を受けて、別室に連れて行かれた。
別室には、ジェーンというナースが居て、彼女はアルフレッドに数枚の写真を見せた。それぞれ男女一人づつの顔写真だった。
「この中にあなたと同じ部屋に入れられていたパートナーがいるわ。あなたと手を繋ぎ、キスをした相手よ。あなたは、どれがあなたのパートナーかわかる?」ジェーンはクイズを出すみたいに尋ねた。
アルフレッドは自分の手で触れた感触を思い出しながら、写真を睨みつけた。そして、一枚一枚眺めている内に、ある一人の写真で目が留まった。それは白人男性の写真で、彼は、金色の長い巻き髪であった。それから顎に髭が僅かに生えていた。彼は青い目をしていて、写真の前で、とろけるような笑みを浮かべている。とてもハンサムだった。この人かもしれないと思った。だけど自信はなかった。アルフレッドは他の写真も見た。顎髭が生えていて、髪の長い人を探した。そして、見つけた。その男は、もじゃもじゃ頭で、顎髭が生えていた。とても太っていて、ぶさいくな男だった。アルフレッドは彼を指で示して言った。
「たぶん、この人だ……」
報酬を貰ったというのに、心は浮かれていなかった。精神的なダメージの影響で、疲労がたまり、体の水分が萎んだようになってる。頭の天気は曇り空。今にも雨が降り出しそうだ。気が重くて、ぶっ倒れてしまいそうだぞ……。アルフレッドは、とぼとぼと下を見ながら廊下を歩いていた。
出口から、治験の建物の外へ出ようとした所で、アルフレッドは誰かにぶつかった。
「おっと! ごめん」
顔を上げて、すぐさま謝ったアルフレッドは、目の前に立つ相手を見て、ぎょっと息を飲んだ。なんと、あの写真の金髪ロン毛に、顎髭の、ハンサムな男が立っていたのだ。
「わるいな。大丈夫?」男がアルフレッドを慰めるように声をかける。
「だだ、だいじょうぶ、だぞ」
アルフレッドは面食らった。自分とキスした相手かも、と疑った相手がいたものだから。動揺している。だが、彼は違う。アルフレッドは首を振る。アルフレッドがキスした相手はブ男だった。だから……。
「チョコチップクッキー」
「へ?」
「甘い香り。お前の体から、ガトーの匂いがする」男はパチン、とウィンクする。「もしかして、同じ金庫に入れられていたか?」
「君も被験者だったのかい?」
「そうだよ」男は楽しそうに笑った。
アルフレッドは男の顔をまじまじと眺める。彼が自分の隣人だったのだろうか。判断が付かなかい。困った顔をすると、金髪の男が、さりげなくアルフレッド手を取った。
「触ってみて」
彼はアルフレッドの手を、自分の髪に触れさせた。
さらさら。
アルフレッドは目を見開く。指に絡まるシルクのこの肌触り、覚えがあった。
彼はアルフレッドが動転して固まっているのを良いことに、アルフレッドの指先に口付けた。
「良い思い出になったよ」
彼はそれだけ言うと、アルフレッドに手を振って、街へ去って行った。
「ただいま」
アルフレッドは自宅の玄関の扉を開けた。
「アル!」
家の奥からマシューが慌ただしく飛び出してくる。
「君っ、非道いよ! 僕を置いて、勝手に一人で……っ、て、あれ? どうしたのアル? 君、なんか様子が変だ……」
「そうかい?」
「ねえ、都会で何があったんだよ?」
「うん、」アルフレッドは顔に笑みを浮かべる。「凄いことさ」
―完―