とある田舎町に、19歳の青年、アルフレッド・F・ジョーンズは住んでいた。彼は大学生であり、平日は学校に通わなくてはならなかった。だが、そんな日々を、アルフレッドはよく思っていなかった。というのも、彼にとって勉学はつまらないし退屈だったのだ。数字の羅列や、文字の羅列を見ていると、頭が窮屈になって、埃を飲み込んだみたいに息苦しくなってしまう。アルフレッドは楽しい遊びや、スリルが大好きだった。だから、大学に行けば、本来の目的である勉学をせず、大学のグラウンドを走り回ったり、友人と体育館でバスケをしたり、授業をさぼって校内を散策して、バッタリ会った教師に、単位がどうこうと説教されたりしていた。
「どうするんだ、アルフレッド・F・ジョーンズ。君は大学に何をしに来ているんだね」バーム教授は白髪の老人である。いつもピンクのトレーナーに、迷彩のズボン、よく磨かれた皮の靴を履いていた。彼はやせていて、とても背が低かった。笑うと両頬にえくぼができた。彼は自分は権威があり、偉いと思っていて、学生に語りかけるときは、胸を反らし、君に話すために大切な時間をとられているのだと言いたげに不機嫌そうに口を歪めながら話した。
「君はその他大勢のまじめな学生に比べると、あまりに熱心でないね。注意散漫で、勉強を嫌いな節があるようだ。だが、それではいけないよ。若い内は何をしても許されると過信してはいけない。若い内だからこそやらなくてはならないことがある。それが勉強だ。私たち大人は、長い人生の経験の中で勉強こそ一番大切なものであると知った。子供の内に学んだことが、将来大人になるうえで、非常に役に立つと。若い内は知ることが出来ない。大人になってはじめて知ることだよ。ジョーンズ? ちゃんと私の声を聞いているか? 耳だけこちらに向けて顔はどこを向いている? ん? いいかね、よく聞きなさい。大事なことだ。何のために義務教育がある? 大切だからだ。私を含め大人たちは子供たちの未来を常に案じている。君たちには後悔のない人生を歩んで欲しいんだ。無駄に苦しむなんて事しなくていい。大人たちが作った法律は、未来の子供たちが道に迷わないために存在する。人生経験から得た真理が、そこにある。私が言いたいのはだね、ジョーンズ君、君は勉強をしなくてはならない。鉛筆を握って、教科書とノートを開きなさい。先生が話すことをすべて暗記しなさい。君のご両親も望んでいる。君は偉くならなくては。賢くならなくては。それが、君の、人生の目標だ。しっかりしなさい。何のために大学が存在すると思っているんだね。何のために君は大学に来た? しゃんとしなくてはならないよ、ジョーンズ」
大人というのはアルフレッドにとっては敵だった。自分の楽しみの時間に割り込んで、説教を永遠と垂れる。食事にたかる蠅のように煩わしい。うるさい羽音を響かせて、頭の周りをぶんぶんと飛ぶのだ。アルフレッドは大人ぶった大人が苦手だった。大人の多くは本当は大人ではないと知っているからだ。道路に痰を吐くおじいさんや、車からたばこの吸い殻を捨てる大人を見てきた。道で肩がぶつかっただけで大喧嘩する大人も見た。陰口を言って、それを話すのが極上の楽しみであるかのように笑う人、自分の利益のため、人をおとしめようとしている人、思い通りにならないとへそを曲げる大人。大人は子供と同じだ。そんな大人に信頼なんて置いていない。だから、彼らの説教なんて、ぜんぶ、いちゃもんに聞こえてしまうのだ。
アルフレッドは自分自身を信頼している。自分のすることが正しいと過信している。自分の脳で考えたことが、世の中の真理であるはずだ、そうにちがいないと考えていた。何か間違いがあれば、自分で必ず気づくはずだと思っていた。気づかず失敗しても、人生には挽回できるチャンスが必ずあるから平気だと楽観する節があった。
楽しいことが好きだった。おもしろいことや、興奮できることが好きで、それらを味わうために、アルフレッドはいくらでも行動的になれた。だが、最近、アルフレッドは不満だった。19年間生きてきた中で、思いつく楽しみはすべて味わってきた。味わい尽くしてしまったようにすら感じる。アルフレッドは今の生活に飽きを感じ始めていた。だから、都会に行きたいと思った。都会に行けば、今の田舎の中の生活よりも、もっと楽しく、興奮できる新しい遊びを体験できるだろうと思ったのだ。何もない田舎には、もううんざりしていた。
都会に行くには金が必要だった。アルフレッドはフードショップでアルバイトをし、なんとか、都会に行くだけの金をためる事が出来た。この金で、今度の夏休み、都会に行こう。そして、新しい都会の遊びを満喫してやるんだ。
アルフレッドの夏休みの一人旅は密かに計画され、着々と準備を進められた。都会のガイドブックも買ったし、旅先の周辺情報をネットや、本で色々調べた。とにかく都会は田舎よりも危険だという事がわかった。なんでも、都会にはスリや、乞食がその辺にうろちょろしているらしいのだ。特に、柄の悪い若者が多く生息している地域があり、そこを通れば、慣れていない奴は必ずかつあげされるという話である。アルフレッドはいつスリにあっても良いように、靴にちょっとした細工をし、そこに紙幣を隠せるようにしなくてはならなかった。
準備は完璧だった。金も集めた。都会行きの電車の切符も取り寄せた。リュックには救急箱と、下着、靴下、それからガイドブックを入れた。着替えもほんの少し入れた。夏休みはもうすぐだ。後、何か忘れていることはないか、アルフレッドは腰かけたまま考える。
「おっと! 大事なことを忘れる所だったぞ」
アルフレッドは慌てて立ち上がると、おもむろに机の引き出しから紙とペンを取り出し、紙に何か書き出した。
「でぃあ……マム……ダッド……アンド、マシュー……」
しばらく旅に行ってくるぞ! 心配ご無用! まあ、そんな事を書いた。この手紙は封筒に入れられ、しっかりとのりづけされ、旅の当日まで机の奥にしまって置かれた。前日に家族に旅のことを打ち明けようものなら、なんと言われるか分かったものではない。アルフレッドの家族はとても心配性だった。事に、アルフレッドに対してだけは、家族中の誰もが、常に目を光らせていた。アルフレッドが遊び人で、落ち着きなく、危なっかしいという特性を彼らはよく知っていた。アルフレッドが未来するであろうドジの事を恐れ、心配していた。だから、アルフレッドが一人で危険な旅に行くと言い出したら、きっと意地でも彼らは止めるだろう。
アルフレッドは、自分の楽しみを邪魔する手を避けるために、旅のことをずっと黙っていた。家族はおろか、友人にも話さなかった。アルバイトでためた金の使い道を聞かれても、適当にごまかした。すべては順調だった。旅のその日までは……。
「アル、ちょっといいかい?」
今夜、都会行きの列車に乗って出掛けるという時、時刻は夕刻だった。あと三時間後に家を出なくてはならない。双子の片割れのマシューが、アルフレッドの部屋のドアを叩いた。
「なんだい?」アルフレッドは、つとめて平静を装い、リュックをベッドの下に隠してから、ドアを開けた。
マシューは眉をひそめ、アルフレッドの脳味噌に隠した全ての計画を見透かしたように、目を細め、首を横に振った。
「君、僕に内緒で、どこへ行くつもり?」
マシューは右手を持ち上げた。その手には、アルフレッドがリュックにしまったはずのガイドブックと、机の引き出しにしまっていた手紙が、封を切られ握られていた。
「Oh、No……。なんで君それを……」アルフレッドはぎょっとして、頭を抱えた。
「最近アルが妙にそわそわしていて、挙動不審だったから、探りを入れさせてもらったんだ。なんか変なものを隠しているんじゃないかって。で、その……、君の部屋を隈無く調べさせてもらったのさ。それで見つけた」
「マシュー……!」アルフレッドは信じられない思いでマシューを見つめる。勝手に人の部屋に入ってきて物を漁るなんて、泥ねずみと同じじゃないか。血のつながった兄妹がこんな事をして良いと思っているのだろうか。これは裏切り行為にあたる。
「部屋に勝手に入ったのは悪かったよ。でも、アルのためなんだ」マシューは多少の罪悪感に苛まれた様子で、苦痛に顔を歪め、感情を隠すようにアルフレッドから目をそらし、言った。「君は、ちょっと人よりも無鉄砲なところがある。行動力があるのは良いことだけど、君はそのせいで色々失敗をしてきた。僕はそういう君を見るのが辛かった。少し用心すれば防げる罠に、君はよく落っこちる。僕は君が、いつかとんでもない目に遭うんじゃないかって心配しているんだ……」マシューは涙を堪えるように唇を噛み、首を振った。「一人旅は危険だよ! しかも、君が行こうとしているのは都会じゃないか。一番危険なところだ。殺人鬼や、マフィアがいるらしいじゃないか。いいかい、田舎からのこのこやってきた赤ん坊の君は、奴らの格好の餌食になるだろうさ。そして、金を奪われて殺されるんだ!」
マシューは感情的に叫ぶと、アルフレッドが家族のためにしたためた手紙をびりびりに破り捨てた。床に散らばった紙の破片を見て、アルフレッドは圧倒されていた。
「落ち着いてくれよ、マシュー。殺されるなんて考え過ぎさ。都会は警備がしっかりしているし、へたしたら田舎よりも安全だぞ」
アルフレッドはマシューを宥めながら、しきりに廊下を気にしていた。階下で夕食を作っているだろう母親の存在が気になったのだ。
「マシュー、もしかして、君、パパやママに言ってしまったのかい? 俺が出掛けることを」
アルフレッドが恐る恐る尋ねると、マシューは、気が抜けたように笑った。
「まだだよ。でも、これから言うつもりさ。君の行動しだいでね」マシューは鋭くアルフレッドを睨みつけた。彼はアルフレッドが出掛けることを絶対に許さない気だ。マシューは優秀な番犬みたいな奴だった。
「OKー、わかった、いかないよ」アルフレッドは、ここはへたに抵抗すべきじゃないと、さも諦めたかのように両手をあげ、ベッドに身を投げ出した。
「何しているの?」
「もう行くのをやめたから寝るんだぞ」そう言いながら布団をかぶる。
「まだ、夕方の六時だよ。そうやって僕を油断させて、僕が居なくなったら、こっそり家を抜け出す気だろ? そうはさせないんだからね!」
マシューはズカズカと部屋の中に進入してくると、椅子を引っ張ってきて、アルフレッドのベッドの前に置き、その上に座った。
「マシュー! やめてくれよ! 君がそこに座っていたら気になって眠れないじゃないか!」
「僕が居なくてもちゃんと寝るのかどうか怪しいね! 僕は君が変な事をしないように、ここで見張っているんだ!」マシューは頑なに言い張ると、胸の前で腕を組んで、アルフレッドを見下ろす。一歩でも動いて見ろ、その時は容赦しないぞ、と言いたげだ。
アルフレッドはべそをかいた。このままマシューに居座られたんじゃ、家を抜け出せずに電車に乗り遅れてしまう。せっかく切符を買ったのに、台無しだ。なんとしてでもこの場を切り抜けなくては。
「オウケイ。マシュー。こうしよう。羊を数えてくれよ。君がその優しい声で数えてくれたなら、俺はぐっすり眠れるぞ」
「いいよ」
マシューは羊を数えだした。アルフレッドは、彼が数えるひつじの数をまったく聞いちゃいなかった。もちろん、眠るつもりなんか、さらさらなかったからだ。しだいにに羊を数えていたマシューの声が小さく、頼りないものとなってきた。アルフレッドが、こっそりマシューの顔を伺うと、予想通り、だらしなく開いた口から涎を垂らして、目をうつろにしているマシューの顔があった。アルフレッドは笑いたいのを押さえ込み、マシューに羊の数をしばらく喋らせていた。マシューという人間はとても真面目である。アルフレッドは羊の数を数えて眠くなるというのがどう言うものかわからないが、マシューはそれが上手にできた。今日という日ほど、マシューの性格を有り難く思った日はないだろう。
マシューは、こっくり、こっくりと船をこぎ出す。
「マシュー、声が小さくて聞こえないぞ。もっと近くで喋ってくれないかい。ほら、俺の隣に入っていいぞ」
アルフレッドが布団を空けてやると、マシューはのろのろと布団に入ってきた。
「……ひつじが、ひゃく、さん、びき……ひ、ひつ……じが……」
やがて、マシューは寝息を立てて、ぐっすりと眠ってしまった。
「ソーリー、マシュー」
アルフレッドは、目を閉じ枕に頭を預けているマシューのおでこに、そっとキスを落とし、静かにベッドを抜け出した。そして、リュックをとって部屋の外へ出た。階段を下りるときは、音で母親にばれないよう注意しながら下った。玄関のドアも、ゆっくり、静かに開けた。
やっと外に出ることができた。アルフレッドは外のなま暖かい風を浴び、その柔らかな大地を踏んだ瞬間、土を蹴って、全速力で走った。まるで背後の存在から逃げるように、ひたすら駅を目指して。ぜったいに彼らに捕まってはいけない。だけど、自分を追いかける人なんて、誰も居なかったのだ。
駅に着いたアルフレッドは、売店でチョコレートバーと缶のコークを買い、改札で切符を通して、ホームに停まっていた列車に乗り込んだ。列車の中には殆ど人が居なかった。アルフレッドは車両の真ん中当たりの席に来ると、その頭上の荷物置きにリュックを乗せ、座席に腰を落ち着けた。椅子はふかふかして、座り心地が良かった。寄りかかれば、その分体が椅子に沈んだ。
アルフレッドは窓のふちにコークとチョコバーを置いて、窓の外を眺めた。ぽつぽつと照らされた小さな明かりがあるだけの薄暗いホームを帰宅途中のサラリーマンや、どこかの学生が歩いていた。アルフレッドは彼らに手を振ってやりたい気分だった。これから都会に向かうんだ。期待と興奮で胸が高鳴っていた。道行く人に今の自分の状態を自慢して回りたい。へい、今から一人で都会に行くんだぞ! 凄いだろ!
アルフレッドは一人でにやけながら、コークの缶の蓋を開け、中身を一口飲んだ。びりびりとした炭酸が喉に流れ落ちていくと、気分が良くなった。
「まもなく、二番線特急列車AP、発車致します」
プ――、と発射のベルが鳴る。やがて、アルフレッドの乗っている列車が、ゆっくりと前に進み出した。景色がどんどん後ろに流れていく。ついに駅は見えなくなり、見えるのは永遠に続く畑や野原ばかりとなった。旅は長い。アルフレッドは一眠りすることにした。
プ! という列車の汽笛の音で、アルフレッドは一度目を覚ました。その時窓の外は真っ暗だったが、雨が降っているようで、窓にたくさんの水滴が点いては、窓の側面を垂れていった。アルフレッドはもう一度眠ることにした。
朝方、アルフレッドは目を覚ました。雨は降っていないが、早朝であり、空は青々と薄暗かった。都会に近いようで、窓からビルのような大きな建物や、住宅を沢山見ることが出来た。
アルフレッドは座席に座ったまま伸びをして、凝り固まった体をほぐす。もうすぐ都会だ。起きていた方が良いな、とアルフレッドは思い、飲みかけのコークを一口飲んだ。アルフレッドは顔をしかめる。コークはすでに炭酸が抜け、ただ甘いだけの水になっていた。不味くて飲めやしない。アルフレッドはコークを横にやり、代わりにチョコバーをとって、封を開け、それをかじった。中にピーナツとキャラメルが入っていた。甘くて美味しい。だけど、そのチョコは、口の中でなかなか溶けてくれなくて、アルフレッドはガムのように無理矢理噛んで、喉の奥に押し込まなくてはならなかった。
そうこうしている間に、列車は駅にたどり着いた。窓から見える町はすっかり都会だった。アルフレッドはここで降りる。荷台からリュックを降ろし、背中に背負って、出口から出た。朝日は昇っていたが、まだ早朝ということもあり、人は少なかった。プラットホームから階段を上って改札を通り、外の街に出た。ビルや、お店などの建物が沢山あった。遊歩道も整備され、あちこちに信号が建っていた。見るもの全てが新鮮だった。駅の前にずらりと駐車されたタクシーの行列も目新しくて、不思議だった。アルフレッドはガイドブックの地図を開きながら、街を少し歩いた。地図なんてあってないようなものだった。アルフレッドは地図を途中でしまい、通りを適当に歩いて行った。道行く人に挨拶をしながら歩いていると、自分も都会に住む人の一員になれたみたいに錯覚して、嬉しくて、終始にやけっぱなしとなった。
狭い路地や、入り組んだ道に入り、ずっと歩いている内に、アルフレッドは気がつかないまま、いつの間にか迷子になっていた。先ほどまであれだけあった店もなくなり、まわりは住宅ばかりである。不安ではあったが、歩いていれば、いずれまた街に出られるだろうとアルフレッドは楽観していた。さらに歩き続けると、あたりは美しい街の景観がなくなり、廃れた建物が多くなった。道路に落ちているゴミも目立つようになった。そこまで来て、アルフレッドはとうとう自分のミスを認めざるを得なかった。自分は道を間違えた。これ以上進んだってきっと良いことはない。みる限り、ボロい家々が立ち並び、ここが低所得者居住区であるとわかる。旅行客が来るには不釣り合いな所だ。アルフレッドは来た道を戻らなくてはいけないだろう。その時、アルフレッドは何者かに背中を思いっきり突き飛ばされ、地面に右半身を打ち付けた。咄嗟のことで、受け身もとれなかった。ぶつけた肩の痛みに顔をしかめながら、顔を上げると、目の前に柄の悪そうな若者の集団が立っていた。彼らはアルフレッドを取り囲み、意地汚く笑った。
「おい、おまえ、こんな所に何の用だ? 用もねえ奴がこんな所に来て、おまえ、どうなるか、知っているか?」一人の若者は口から涎を垂らし、それを啜りながら態とらしくケタケタと笑って言った。
「生意気な面しやがって! ボコっちまうぞ!」別の若者がすかさず言った。
「おいおい、待て待て。そう急ぐじゃねえよ」また別の若者が前の若者の興奮を落ち着かせるように言った。「俺たちは、お前の言い分を聞いてやる義務がある。で、何の用でここに居んだ?」
若者に聞かれ、アルフレッドは、すっかり困ってしまった。用もなく歩いていたと分かれば、彼らが自分をどうするか、分かり切ったようなものだった。
「秘密の用件だな!」
アルフレッドが何も言わず黙ったままでいると、若者の一人がアルフレッドを指さし、叫んだ。彼の発言はアルフレッドの助け船となった。
「薬だ! そうだろう? 薬を買いに来たんだよ!」
「そうか、お前、薬を買いにきたのか!」別の若者も興味深そうにアルフレッドを見た。「何が欲しいんだ? エス、リーフ、紙もチョコもあるぜ。俺たちは薬の売り子をやってんだ。欲しい物を欲しい分まで言ってみろ」
アルフレッドは薬なんて欲しくなかったが、チョコレートなら買っても良いと思った。
「うーん、チョコが、欲しいんだぞ」
「OK! 着いて来な!」若者たちは手を打ち鳴らし、アルフレッドを路地裏に引っ張って行った。
アルフレッドは先陣を切って歩く若者の後ろを歩き、アルフレッドの後ろをまた別の若者が後ろを守るように着いて来ていた。アルフレッドは路地裏まで連れてこられると、更に細い路地に連れてこられた。時々窓のない廃墟をアーチのように潜りながら、また進んだ。アルフレッドは疲れを感じた。彼らはいったいどこまで連れて行くつもりだろう。
「ねえ、どこまで行くつもりだい。もう足が疲れたぞ。店にはあとどのくらいで着くんだい?」
「店なんてないよ」若者の一人が言った。
「この辺でいいだろう」別の若者が言うと、若者たちは足を止めた。アルフレッドも真似をして立ち止まった。
辺りを見渡すと、周りには何もない。ここはかつて誰かが所有していた廃墟の庭であるらしく、長年手入れもされず放置されていたせいで、雑草が腰の高さくらいまで生い茂っていた。見た目は、ずいぶんと見窄らしい荒れ地だった。
「おい、いくら持っているんだ?」
若者に肩を叩かれ、アルフレッドは、はっとして、すぐにポケットから小銭を取り出し、若者に差し出した。
「これで買えるかい?」
若者はアルフレッドから小銭をかっさらうと、その数を一枚一枚数えて、全部数え終わると、彼の顔はみるみるうちに真っ赤になった。
「舐めているのか!」若者はつばを飛ばしながら叫んだ。アルフレッドから奪った小銭を自分のポケットにしまうと、彼はアルフレッドの胸を突き飛ばす勢いで、強く小突き、アルフレッドを罵倒した。
「このくそったれめ! これっぽちの金でチョコを買いたいだと!? お前のような馬鹿は初めてだ!」
アルフレッドは訳が分からなかった。チョコレート一枚買う分には十分な金額を渡したのに。なんだって怒られないといけないのだ。アルフレッドはまたも若者たちに取り囲まれてしまった。
「俺たちを馬鹿にしているんだな! 金持ちのクソ野郎め! 思い知らせてやる!」
若者の一人はズボンのポケットから抜き身のナイフを取り出すと、刃先をアルフレッドの首に向けて脅してきた。アルフレッドは刃物を見てぎょっと驚き、身を縮こませた。それは明らかに自分を殺すために向けられたものであったからだ。殺されるかも知れないと思うと、あまりの恐怖に血の気が引き、体がぶるぶると震えた。恐怖を味わうと、体は緊張するもので、アルフレッドは何度も呼吸に失敗し、息をたびたび飲みこんだ。若者は、そんなアルフレッドの怯えた青い顔を見て、満足そうに笑った。
「今からこのナイフでお前の柔らかい体をズタズタに切り裂いてやるぜ。どこから切ろう……? 首か? 顔か? 腹かぁ~?」
「マー坊、やめろ」別の若者が、ナイフを持った若者を制した。「問題ごとを起こすな。警察の豚に目を付けられたら面倒だ。そして、そこの金髪眼鏡。命が惜しくば全財産とその大きな荷物を置いて、どっかへ行っちまえ!」
金も荷物も置いていきたくないアルフレッドは迷っていた。そのまま逃げたら、捕まるだろうか。それとも逃げきれるだろうか。
「早くしろ!」
アルフレッドは逃げようとした。逃げきれる可能性に賭けたのだ。だが、こういうことに手慣れた若者が見過ごすわけがない。アルフレッドが逃げるための一歩を踏み出すと、彼らは早速見事なチームワークで、回り込んだ雨雲のごとく、恐ろしい早さでアルフレッドの逃げ道を塞いだ。彼らの一人は足を引っかけて、アルフレッドを転ばせることに成功した。
「この大馬鹿野郎め!」
次の瞬間、どかん、とアルフレッドの脳が揺れ、目の前に星が散った。
誰かに石で頭を殴られたのだ。アルフレッドは頭から血を流し、ぱったりと意識を失った。
耳元で、高く唸る不気味な声で、アルフレッドは目を覚ました。それが蚊だとわかると、アルフレッドは蚊のあのしましまとした体の模様を思い出して、ぞくっと寒気がして、鳥肌が立った。虫の中でも、蚊は嫌いだった。アルフレッドは耳の横で手を振り回し、首を振り、蚊を追い払った。だが、血に飢えた蚊はしつこい。アルフレッドの肌になんとか留まろうと、執拗にまとわりついてくる。アルフレッドは起きあがった。すると、急に起きあがったせいで、少しめまいがした。足を踏ん張って、めまいをやり過ごし、頭のふらつきが落ち着いてから、辺りを見渡した。周りに人は居なかった。荒れ地に、自分だけ、一人、ぽつんと居た。あの若者たちも居ない。アルフレッドは自分の背中がやけに軽いことに気がついた。リュックがなかった。ズボンのポケットを探すと、財布もなかった。いくら周りを見渡しても、自分のリュックの色は見つからない。もちろん茶色い皮財布も見つけられなかった。
盗まれたんだ。
アルフレッドは自分の額をぴしゃりと叩いた。これはまさかの失態だ。
とりあえず、アルフレッドは蚊から逃げるために歩き出した。歩きながら考えた。まったく腹が立つんだぞ。アルフレッドは悔しくて泣きそうだった。あんまりだ。彼らは人が眠っている内に、アルフレッドの全てを盗んで行ってしまった。都会に来て、これから楽しもうって時に必要な物が全て、全部奪われた。もうダメだ。もう楽しめない。アルフレッドの目の前は途端、真っ暗な闇の蓋に塞がれてしまったかのようである。アルフレッドの遊びは、若者に荷物を奪われたせいで終わってしまったのだ。こうなれば、このまま都会にいることは不可能だ。家に帰らなくてはならない。だけど、このまま帰るのは嫌だった。それに、帰りの電車代もないのだから、そもそも帰ることは出来ない。アルフレッドはため息をついた。それは、安心したからだ。帰らないといけないのに、帰らなくても良いとわかったからだ。まだ、都会の空気を吸っていたかった。
アルフレッドは駅の方まで戻ってきた。朝来たときより、人が沢山居た。人々は、わらわらと一斉に巣から飛び出してきた蟻みたいである。彼等は彼等の目的地に向かって歩いていく。アルフレッドは、そんな彼等を横目に、行き宛もなく、ぶらぶらと駅の周りを歩いた。何の気なしに歩いているように見えて、アルフレッドの体はへとへとに疲れていた。ずっと歩き通しだったのだ。足だって、疲労を訴えてきている。殴られた頭だって、傷は塞がっているけど、未だに鈍く痛んでいた。
これからどうしようとアルフレッドは考えた。とりあえず今晩の宿を見つけたい。体は今すぐに休息を欲している。
安い宿を探して歩いて、アルフレッドは一件のスパを見つけた。雑魚寝にはなるが、体を休めるには十分だった。アルフレッドは靴の中に隠していた金を取り出す。有り難いことに、若者たちは靴の中までは調べなかったのだ。今残された全財産は、靴の中の三十ドルだけだった。
アルフレッドは僅かに臭う金を、受付のボウイに支払うと、スパに入った。
スパにはシャワーもあるし、ネットにつないだパソコンも借りられた。ちょっとした夜食や、朝食もついているのは便利だった。
アルフレッドは早速シャワーを浴びて、体の汚れを落とし、雑魚寝部屋に移動して、ずらりと並べられた真ん中辺りのベッドに体を横たえると、そのままぐっすり眠った。
目が覚めると、アルフレッドは夜食を取った。ミルクと、ハムエッグ。バターロールは好きなだけ食べることができた。それからカボチャのスープも飲んだ。とても美味しかった。お腹が満たされると、アルフレッドは腹を撫でながらパソコンルームへ向かった。
というのも、アルフレッドは調べ物をしなくてはならなかった。今はお金がない。そのお金を手に入れる方法をこれから調べるのだ。アルフレッドはパソコンを一台起動し、ネットに接続した。そして、検索画面を開くと、そこにワードを叩き込んだ。
「すぐに大金を手に入れる方法」
30分くらい、アルフレッドはパソコンの画面と睨めっこをしていた。それから、更に30分経って、アルフレッドはようやく望んでいた情報を得ることが出来た。自分の仕事ぶりを労った後、アルフレッドは検索結果を紙に印刷し、それを小さく折り畳んでポケットにしまった。
その時、誰かがパソコンルームに入ってきた。
「やあ、こんな遅くに調べ物か? ご苦労なこった」
そう声をかけてきた彼は、大学生のような出で立ちだった。顔は幼いし、黒い髪にはワックスをぺったりと塗っている。服装は、ジーンズに、緑色のワイシャツだった。彼はやたらに眉を上げ、瞼の皮膚を伸ばして目を細め、変な表情を作った。彼はその表情が格好いいとでも思っているかのようだった。
「俺の検索は今終わった所さ。このパソコンは優秀だ」アルフレッドはシャットダウンして真っ暗になったパソコンの画面の頭を、労るように撫でた。「君も何か調べ物かい? いい情報が見つかると良いね」
「いや……」大学生風の男は半笑いで首を横に振った。「僕は、調べ物をしに来たんじゃないよ」
彼は、ずかずかとアルフレッドの近くまで歩いてくると、馴れ馴れしくアルフレッドの腕に触れた。「窓から覗いたら、中に、なかなかのイケメンが居たものだから、声をかけたのさ」
男は恍惚した顔で言う。そう言いながら、アルフレッドの腕の産毛を撫でる。
「良い体をしているね。それに君の瞳は本当に綺麗な色だ。まるで銅湖のようだ。この美しさは近づかなければわからない。もっと近くで見たら、今見えるのより綺麗に見えるかな?」
男がアルフレッドの唇にキスする勢いで顔を近づけてきたので、アルフレッドは首を後ろに反らし、男の頭を手で押さえなくてはならなかった。
「何なんだい? 気持ち悪いぞ。君」
彼は傷ついた顔をした。
「ゲイじゃないの……?」
「なんだって?」
「ここに来る連中の殆どはゲイなんだ。もちろん客の中には、ゲイじゃない人も少なからず居るけど。でも、君はゲイみたいな顔だった。だから声をかけたのに」
彼は非難がましく言った。アルフレッドは何と言ったらいいか……、乾いた笑いが出た。
「ゲイじゃないよ」
「そうか。それは、悪かったね。時間を無駄にした。じゃあ」
男は、苛立ったようにそう言うと、アルフレッドに手を振って、パソコンルームから出ていった。
アルフレッドは、身をすくめた。この後、雑魚寝部屋へ戻ろうとは思わなかった。あそこに戻ったら、自分の体が誰かに奪われてしまうのでは、と心配したのだ。性に関して、アルフレッドは極端に敏感だ。自分が今まで性の経験をしてこなかった童貞だったから、余計に性という問題を恐れ、恥ているのだ。セックスがどのようにして行われるのかもアルフレッドは知らない。だけど、子供がセックスをするのは許されない事だとは思っている。アルフレッドは19歳でありながら、自分のことをまだ子供だと思っていた。
アルフレッドはスパを出た。スパの建物が、とても卑猥に思えて、気持ちが悪かった。
それからアルフレッドは、街をさまよい、夜を明かした。朝日が昇ると、元気が出てきた。なんせアルフレッドには目的があった。アルフレッドはポケットから紙を取り出して広げた。そこに描かれていたのは地図だった。遊ぶのには金がいる。早く着いてしまったら、周辺で時間をつぶせば良い。アルフレッドは地図の場所に向かった。
都会の中に、まさか山があるなんて思わなかった。山の道は、広々とした道路で舗装されていたので、山を登るのは比較的楽だった。山を登りきる途中の横道に入った所に、そこはあった。黒い鉄柵の門が立ちはだかる。だが、その柵は鍵が開いていて、誰でも自由に開けられた。
アルフレッドは敷地内に進入する。大きな建物が建っていた。入り口に呼び鈴がある。押すと、自動ドアのように入り口のドアが開いた。中に入ると、すぐ、受付のカウンターがあって、そこにナース服を着た女性が座っていた。
「なんのご用件で?」ナースは愛想笑いもせずに、事務的に尋ねた。
アルフレッドはナースに印刷した紙を差し出す。
「ネットで見たんだ。これを」
ナースは紙を受け取り、しばらく紙に書いてあることを黙読すると「わかりました。こちらへどうぞ」とカウンターから出てきて、アルフレッドを親切に建物の奥に案内してくれた。
アルフレッドは狭い会議室のような所へ通された。小さな机と、椅子が二脚ある。アルフレッドは椅子に腰を落ち着けた。五分もしない内に担当の者が現れた。
「治験に協力してくださるという話でしたかな。あなた」背の低い眼鏡をかけた中年の男が、白衣を翻し急々とやってきて、テーブルの上に紙の束を広げる。
「ああ、そうさ。ネットで見つけたんだぞ」
「なるほど。そうですか。ありがとうございます。私はコーリンといいます。治験と言っても、ただ、血圧を測って寝るだけの数時間のものから、薬を服用して二、三日体調をみるようなものがあるのはご存じですかな?」
コーリンはアルフレッドにパンフレットを数枚手渡す。
「ああ。ネットで見たから知っているぞ」
コーリンはガサガサと、机に広げた資料の束を漁る。そして、一枚の紙を見つけて、引っ張り出した。
「今行われているテストはこちらに書かれてあります。数人のグループと一緒に行う物が殆どですから、メンバーが集まり次第、こちらからテストの開始日を連絡して、それで被験者の方にこちらに来てもらうという形になっております」
「悪いけど、今すぐお金が必要なんだ。すぐに参加できる実験とかはないのかい?」
アルフレッドが身を乗り出し、急きこんで聞くと、コリーンは、しばし呆けたように天井を見上げて、考えを巡らした。
「あるにはあるんですけどね。今日の午後から行われる予定のテストが一つ。ですが、それはメンバーがすでに決まってしまっていて、急に横から申し込まれても、上がどう判断するか……」
「そうなのかい? 何とかならないのかい?」
「聞いてみますよ」
コリーンは部屋を出て行った。コリーンが戻ってくるまで、アルフレッドは良い返事が出るように祈った。
コリーンは戻ってきた。だけど、彼の隣には別の白衣を着た男性が居た。
「この方が、そうです」コリーンはアルフレッドを指さし、もう一人に言った。
「ふほっ!」もう一人の男は、アルフレッドの顔を見て、嬉しそうに叫んだ。「彼は良い!」
「だけど、被験者はもう決まっているんですぞ。……数が合わない」
「それなら、一人には辞退してもらおう!」
もう一人の男は興奮したように部屋を出ていった。コリーンはそんな男を見送り、アルフレッドを振り返ると、微笑んだ。
「一つ質問させてください。あなたは同性愛の経験がありますか?」
「ないぞ」
「よろしい。では、あなたの参加を許可します」
アルフレッドは治験の説明を受けた。どうやら、内容は心理実験になるらしい。注射も薬もない。楽勝だ。
アルフレッドは金を手に入れるため、治験に参加することとなった。